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伝説の旅ベスト5

  • 第五位:第一次九州遠征(2号線の旅)
    1999年3月に国道2号線を使って、神戸から北九州まで旅をした伝説。帰りはフェリーで松山に上陸し、四国を横断して帰ってきた。
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    2005年12月。ホノルルマラソンに出走。人生を変えた旅。
  • 第三位:英国旅行
    飯は不味いが、とにかくお洒落な街と大英博物館、ストーンヘンジ、カンタベリー最高!
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    2007年2月。とにかくカルチャーショックの連続だった。

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2016年5月

2016年5月30日 (月)

深川お散歩(その1:深川不動堂)

平成26年10月11日。川越探険の翌日である。

福岡に帰る前に東京は深川を少し散歩することにした。

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深川不動堂にやってきた。

正式には成田山東京別院不動堂である。

初代市川團十郎以来が成田山の不動明王に祈願し、子を授かってから、市川家では成田屋と称するほど、成田山信仰が篤かった。また、成田山の不動尊を題材とした演目を発表したことから、庶民にも成田山ブームが到来する。

そうしたことから、本家成田山から、不動明王を深川の地に運び、公開したのが、このお寺の始まりだそうだ。

その後も江戸庶民の信仰は盛んであった。ついに、明治時代に成田山から不動明王の分霊が行われ、現在に至る。

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一見本堂のように見える、正面の建物は旧本堂である。

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もともとの本堂が東京大空襲で焼失したため、他所のお寺から移築したものだ。

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で、左横にある、このカ○○神殿のような建物が新本堂である。

平成23年に出来たてホヤホヤである。中に入ると、なにやら読経をしていたので、休憩がてら座って、しばらく聞いた。

なかなかディープな雰囲気のあるお寺であった。

2016年5月29日 (日)

そうだ!川越へ行こう!(その7:川越城本丸御殿)

川越城と聞いて思い出すもの・・・ 「河越夜戦」

川越城は、武蔵国が扇谷上杉氏と古河公方の争いの地であったため、上杉が築城したのが始まりだ。で、北条氏康がその名を轟かせた、先述の河越夜戦だ。北条氏は先の戦で川越城を占領していたが、奪還に燃える上杉は、山内上杉、古川公方と連合を組んで、城を包囲した。しかし、これを夜戦で撃退。扇谷上杉は滅亡、山内上杉は衰退の上、長尾影虎に家督を譲る。上杉謙信の出来上がりだ。戦国史の中でも、旧勢力が新勢力に駆逐された、重要な局面といえよう。ついつい話が脱線してしまったが、今回、見学した川越城は当時のものでは当然ない。もっと後の世の、さらに言うと再建である。

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なかなか威厳がありますなあ。。。

1846年、二の丸御殿が焼失したことにより、本丸御殿を建立した。明治時代になると廃城令により大部分は解体、移築されたが、本丸御殿の玄関と広間が県庁舎として利用された。その後、煙草工場となったり、武道場となったり、紆余曲折あって、昭和42年に大規模な修理の上、現在のような公開施設となった。

早速、見学するか・・・

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使者の間とある。

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使番詰所がとなりにある。
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展示室

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?何だ、ありゃ?何か知らんが撮影していた。何かのレイヤーさんかな?

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この先が家老詰所だ。

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中庭

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なんか秘密会談でもしてはるのかな?

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もとのエリアに戻ってきた。

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鎗の間

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三十六畳広間。一番広い部屋だ。

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駆け足だが、これで一周したことになる。

なかなか渋い造りであった。川越の旅はこれにて終了である。

次回はちょっと東京を散歩した話だ。

2016年5月26日 (木)

そうだ!川越へ行こう!(その6:川越氷川神社)

氷川神社にやってきた。

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氷川神社というと、大宮のものが非常に有名なので、混乱なきようタイトルはあえて川越をつけた。

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関東三大祭の一つ、川越祭りは、ここ氷川神社の例大祭である。

スサノオとクシナダヒメ、クシナダヒメのおとんとおかんの2組の夫婦神を祀ることから、縁結びの神様として名高い。

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これは念入りにお参りしとかな!( ̄ー ̄)ニヤリ

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柿本人麻呂神社とな!?

直系の子孫が戦国時代に川越に越してきたので、祀られているそうだ。

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人形という名の和紙を川に流して、心身の穢れを祓うらしい。

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戌岩を撫でると、子宝に恵まれるらしい。まずは相手が欲しいわ!

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水神社。

他にも摂社や末社が多数、存在した。

それほど巨大な神社ではないが、なかなか見所のある神社であった。

しかし、結婚式をやっていたり、リア充がいっぱいいたので、些か居心地が悪かった。

2016年5月25日 (水)

そうだ!川越へ行こう!(その5:喜多院)

いよいよ喜多院に着いた。

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正式には、星野山無量寿寺喜多院という。天台宗のお寺である。

平安時代に、淳和天皇の詔により円仁が創建した。無量寿にはかつて北院、中院、南院の3院が存在したが、中院は仙波東照宮の建立により移動し、南院は明治に廃院になっている。

天海僧正が住職となり、名を喜多院と改め、隆盛を極めた。その後も徳川家に厚遇された。

ちなみに山門は天海により建立されており、喜多院で現存する最古の建造物(国の重要文化財)である。

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こちらは鐘楼門で、こちらも重要文化財だ。

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慈眼堂である。慈眼大師天海を祀り、中には天海の木造が安置されている。重要文化財。

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多宝塔。

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本堂の慈恵堂である。慈恵大師(元三大師)良源を祀る。

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こちらの庫裡は、書院と客殿(ともに重要文化財)の見学受付になっている。

早速、見学してみた。内部はあいにく撮影禁止であった。

書院には春日局化粧の間が、客殿には徳川家光誕生の間がある。

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庭だけは撮影できたので、撮影してみた。書院と客殿を撮影できなかったのは、残念だった。

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最後に五百羅漢を見学した。

日本三大羅漢の一つだそうだが、そんなものは聞いたことがない。他はどこやねん?

江戸時代に半世紀にわたり、建立され、533尊者のほか、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、阿弥陀如来、地蔵菩薩を併せて、538体の仏が鎮座している。

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なかなか味わい深いものであった。

こうして、喜多院の見学を終えたが、川越散歩はもう少し続く。

2016年5月15日 (日)

そうだ!川越へ行こう!(その4:仙波東照宮)

仙波東照宮にやってきた。喜多院の境内に立地している。

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祭神はもちろん、徳川家康公だ。

家康公がなくなると久能山に葬られ、久能山東照宮が建立された。

翌年、日光に改装される際、法要が喜多院で、黒衣の宰相天海僧正によって行われた。その後、天海によって建立されたのが、ここ仙波東照宮である。

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日光に比べると、小規模ではあるが、なかなか立派な神社だ。

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拝殿だ。

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後ろには唐門の向こうに本殿がみえる。

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逆サイドから・・・

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周囲には親藩大名や譜代大名が奉納した石灯籠が並ぶ。

中には柳沢吉保の名も(゚▽゚*)

さて、いよいよ喜多院に行くか・・・

2016年5月14日 (土)

そうだ!川越へ行こう!(その3:中院)

川越にやってきた。

ここでのメインの目的地は喜多院であるが、そこまで東武川越市駅から歩く。

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まもなく行われる川越まつりの山車が準備されていた。重要無形民俗文化財に指定されている祭りだ。さぞかし賑わうのだろう。

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喜多院に行く途中、中院という寺に遭遇したので入ってみた。

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なんと島崎藤村縁のお寺であった。

何でも島崎藤村の嫁のおかんの墓があるそうで、藤村も頻繁に訪れたらしい。

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中院の山号は星野山、寺号は無量寿寺である。

無量寿寺は平安時代に創建された、大層歴史ある寺である。北院、中院、南院とあり、その中心であった。ところが、天海が北院(喜多院)の住職となると、一挙に喜多院が隆盛を極める。しかも、中院の位置に後述の仙波東照宮を建立したので、場所移動までされた。

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喜多院に比べると小さいが、落ち着いた雰囲気のあるお寺であった。

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