ソウル死闘編(その2:徳寿宮)
ホテルは、ニュー国際といい、ソウル市庁のすぐ近くだ。
で、これがソウル市庁である。なんともド派手である。
そこから少し南に下ると、徳寿宮はある。
大漢門という徳寿宮の正門である。門のところにパンフレットがあった。かなりしっかりした造りだ。気合が入っている。このパンフレットによると、「大漢」とは「漢陽の勢力が栄える」という意味らしい。漢陽はソウルの李氏朝鮮時代の名前である。
なんかテンション上がってきた。
普通は入場料を払わなければならないが、今日は無料の日らしい。ラッキーだ
徳寿宮は、大韓帝国の正宮である。日韓併合条約が結ばれたのもここである。
徳寿宮の中心的な建物である中和殿の門である。中和門が見えてきた。
門の前では、少年たちが独楽で遊んでいた。
中和門をくぐる。中和殿である。中和殿は皇帝の即位式など重要な国家儀式にしか用いられない。
中和殿の前に何やら墓石のようなものが・・・
品階石という。官僚は九品という品階に分かれている。品階石は位ごとの立ち位置を示している。つまり、位が高いほど、皇帝の近くに立てるのである。
龍の彫り物が施されている。他の宮殿は普通、鳳凰が彫られているが、ここは、大韓帝国発足後立てられた建物なので、皇帝を象徴する龍が彫られているらしい。
なんじゃこりゃ?
皇帝はここに座ったんでしょうな。
なかなか見事な天井ですな。
中和殿をでる。中和殿の西側には、何やら西洋チックな建物がある。
徳寿宮美術館らしい。
こちらは石造殿という。
大韓帝国初代皇帝高宗が寝殿として建てたものだ。大韓帝国の近代化のための国策だったらしい。近代化=西洋かぶれという図式ですな。日本も同じやけど、なんだかなあ・・・
おや?なんか行列が・・・
スタバが無料で珈琲を配ってました。そこまで並ばなくとも・・・
中和殿のすぐ北には、浚明堂、即阼堂、昔御堂がある。中和殿建立まで正殿であったところだ。浚明堂は普段、高宗が政務を行ったところでもある。
木の窓に薄っすら残る緑の塗料がええ味だしとるなあと思っていたら、うっちょが「アオカビ」と言った。カビなんかな?
オンドルの焚口かな?
障子が上に上がっている。普段はこうして換気をよくしているようだ。
なんかイベントやっとるな。
昔御堂である。
なにやらえらく雰囲気のある門がある。
その前にトイレタイム!
トイレはいたって普通だった。
静観軒という。高宗が珈琲を嗜む建物らしい。外国使節とも宴会したりしたらしい。
こんなけ、がらんどうやと冬とか寒そうですな。
静観軒の南には、徳弘殿と咸寧殿がある。こちら徳弘殿である。
高宗が高級官僚や外国使節と接見する建物であり、内部は少し西洋チックだ。
咸寧殿である。こちらは高宗が後年寝殿として使い崩御した建物である。
ここまでうっちょと球児をほっといて、ほぼ一人ではしゃぎ放題であった。ふと見ると、うっちょと球児が咸寧殿の屋根を不思議そうに見ていた。
こりゃなんだ!?これを二人は不思議そうに眺めていたわけだ。この置物の謎は二日目に解けることになるので、ここでは触れない。
こうして徳寿宮を後にした。
出口付近に誰かいた。たぶん高宗でしょうな。
さ、次行こっと・・・
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