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    1999年3月に国道2号線を使って、神戸から北九州まで旅をした伝説。帰りはフェリーで松山に上陸し、四国を横断して帰ってきた。
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    2007年2月。とにかくカルチャーショックの連続だった。

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2009年6月

2009年6月29日 (月)

飛鳥歴史探訪(その11:飛鳥板蓋宮跡)

飛鳥寺の前の売店でアイスクリームを買う。

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赤米アイス・・・

私的には、ササニシキアイスの方が・・・

さて、日没コールドが近づいてきた。帰るとしよう・・・

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せ~かいじゅうをぼ~くらの~なみ~だで・・・

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飛鳥寺が見える。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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飛鳥板蓋宮跡にやってきた。

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板蓋宮というと、前回でも紹介したが、中大兄皇子+中臣鎌足が蘇我入鹿をぶっ殺した場所である。ご覧のように、石組だけが残っている。

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何の穴かな?

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随分小さいと思ったら、まだまだ発掘が進んでおらず、遺跡の全体像は不明とのことだ。

それにしても、こういった基礎しか残っていない遺跡というのは、素人の私には退屈だ。ビジュアル的に分かるようにしてほしいものだ。吉野ヶ里遺跡のように・・・

すっかり堪能したので、板蓋宮跡を出発した。

駅でレンタサイクルを返した。少し遅刻したにもかかわらず、快く応対してくれた、自転車屋のおっちゃんに感謝し、神戸に帰った。

おしまい。

   

2009年6月28日 (日)

飛鳥歴史探訪(その10:飛鳥寺)

飛鳥寺にやってきた。

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蘇我氏の氏寺である「法興寺」の後身である。法興寺は、平城京に移り、元興寺になっている。

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山門前に表札のように、「飛鳥大佛」の石碑がある。飛鳥大仏とは、この寺の本尊である「釈迦如来像」のことである。

さっそく門から入る。

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現在の飛鳥寺は、非常にこじんまりしている。本堂である。飛鳥寺には、かつて立派な伽藍があった。当時の伽藍は塔を中心に三つも金堂があるという、かなり特殊なものであった。

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この地下3メートルに塔の心礎があるらしい。

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こちらのお堂には、聖観音がある。

いよいよ本堂に入る。

本堂の中では、見学に当たって、飛鳥寺の説明があった。一通り聞き、勉強をした。

寺男:では、写真撮影されるかたはどうぞ!

写真撮影してええの?

海外では普通だが、日本のお寺では珍しい。では、早速・・・

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飛鳥大仏は、鞍作鳥の作といわれている。鞍作鳥の仏像がこんなに撮れるなんて、幸せだ。

飛鳥大仏以外にも・・・

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藤原時代の阿弥陀如来やら、

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室町時代の聖徳太子像などが普通に祀られていた。

最後に、もう一枚別角度から、飛鳥大仏を・・・

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本堂の裏は庭になっている。

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出口付近は、境内の発掘品が展示されている。

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ちょっとした博物館レベルの内容だ。すごい。。。

一度、飛鳥寺を出て、裏の田んぼに向かうと、入鹿の首塚がある。

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中大兄皇子と中臣鎌足は、板蓋宮で蘇我入鹿の首を刎ねるというクーデターを起こした。ここから歴史に名高い「大化の改新」が始まるのだ。このとき刎ねられた首は飛んで、この場所で落ちたいう伝説がある。恐ろしい話ですな。

それにしても、何気ないところにポツンとあるので、看板が無ければ見逃すところだ。諸行無常ですなあ。。。    

     

    

2009年6月26日 (金)

飛鳥歴史探訪(その9:酒船石遺跡)

酒船石遺跡というと、私はとてつもなく聞きなれない。この遺跡は、従来からよく知られている酒船石と、平成12年に発見された小判形石造物と亀形石造物を加えたものである。

.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.

岡寺から、自転車で駆け下りると、再びJINが胸騒ぎに導かれ、最短コースを割り出した。

以前、酒船石を訪れたときは通らなかったような怪しい道を進む。やがて、山道に・・・

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突如として、酒船石が現れた。以前は、確か、麓に自転車を置いて、徒歩で上がってきたような・・・

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ご覧のように謎の溝が彫られており、酒を絞るのに使ったとかいう説がかつてあったが、実際のところ、謎である。この石の近くから土管等が発掘されていることから、石に水を引いていたことは確かなようだ。

古代のロマンに触れ、不思議な感覚に捕らわれるが、特に面白いことはない。JINができるだけ上から写真を撮ろうと、必死に自転車に登って、キャメラを構えていたくらいである。落ちるなよ~

酒船石から山道を下る。途中の観光客が不思議そうに見ていく。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

それもそのはず、急に階段になった。昔の記憶は正しかった。普通は、自転車を停めて、階段を上がるのだが、我々は逆打ちをしてしまったため、自転車を抱え、階段を下りるはめに・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

階段を下ると、最近発見されたばかりの小判形石造物と亀形石造物が見学できる。何故か有料である。

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上部が小判型石造物で、下部が亀形石造物である。

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このように使われていただろうと再現されている。その説が間違っていれば、赤っ恥である。

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亀ですな。

 

2009年6月25日 (木)

飛鳥歴史探訪(その8:岡寺)

JINが胸騒ぎに導かれ、マラ石から岡寺の最短ルートを割り出した。その結果、自転車で一山越える羽目になった。確かに、最短だけど・・・

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岡寺は文字通り、山に建っている。そのせいか、レンタサイクルで果敢に攻めた者は、私たち意外におらず、我々以外で唯一の自転車といえば、いかにもという感じの自転車であった。

自転車を停め、無人販売中の苺に後ろ髪を惹かれつつ、仁王門へ向かう。

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どすこい!

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そんなの○○ねぇ~

。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚。。+゚゚

この仁王門は明日香唯一、建物で重要文化財になっている。

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岡寺は真言宗のお寺で、山号は東光山だが、寺号はなんと二つある。一つは岡寺、もう一つは龍蓋寺である。岡寺は地名に由来するが、龍蓋寺の名は、1,300年ほど昔、義淵僧正という坊さんが、農民に悪さする龍を封じ込めたという伝説に由来するらしい。

さて、境内を散策するか。。。

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楼門である。

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開山堂である。

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本堂である。

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福々しいですな。

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本尊は、如意輪観音である。奈良時代の仏像が普通に祀られている。冷静に考えると、凄いことだ。

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本堂の隣は、書院になっている。この書院は、仁王門と同じく、明日香で唯一建物として重要文化財になっている。

このとき、普段は東博にある釈迦涅槃像が里帰り中で公開されていた。かなりお得な感じがした。

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書院の前は、先ほどの楼門である。

境内を散策していると山のほうに、鳥居が建っている。

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祠があった。

右手にまだ階段が続いている。

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洞窟が・・・

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これはありがたい。

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これだけ、上に上がると、本堂付近の全景がばっちり把握できる。

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本堂に・・・

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右が開山堂で、左が楼門、奥が書院である。

丘を下る。

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三重塔である。

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やっぱ最後はスーパースターですな。弘法大師様。

さて、山を下りますか!            

    

      

2009年6月22日 (月)

飛鳥歴史探訪(その7:石舞台古墳、マラ石)

川原寺跡から自転車を走らせる。坂を上ると、石舞台古墳に着いた。

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盛り土が無くなり、玄室がむき出しになった、そのフォルムはあまりにも有名だ。教科書でおなじみである。

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石舞台古墳は蘇我馬子の墓と言われている。盛り土を剥がれたのは、蘇我氏に対する懲罰という説もある。

石舞台の名の由来は、そのフォルムにある。昔、古墳の上で狐が踊ったという伝説もあるが、これは近年作られた話という説もある。

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石と石の間は、結構隙間がある。

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この穴に首を突っ込む者が続出していた。かく言う私もそのくちなのだが・・・

何故首を突っ込むのか?そこに穴があるから・・・

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反対側に廻る。やはり印象が全然違う。何故か、花が供えられていた。

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ここから玄室内に入ることができる。

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玄室内は、隙間が多いせいか、意外に明るかった。

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さっきの穴を玄室内より仰ぎ見る。

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天井である。

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雨水が溜まらないように、溝があった。

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さて、石舞台古墳をでた。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

石舞台古墳の近くの売店で軽食をとり、再び自転車を漕ぐ。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

私がどうしても見たかったものを、見にやってきた。名前を聞いて、一度は見てみたかったものだ。かつて、飛鳥を訪れた際、場所が分からず、見逃していたものだ。

その名を、マラ石という。

これだっ!

1,2,3・・・

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この縦スジがといい、微妙に斜めに立つ姿といい・・・

立派でした(≧∇≦)

JINと二人、騒いでいると、親子連れの自転車が・・・

親子の間で微妙な空気が流れていた。。。

さて、次に行きますか・・・

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2009年6月19日 (金)

飛鳥歴史探訪(その6:川原寺跡)

橘寺の向かいには、川原寺跡がある。

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川原寺は、かつて、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ、飛鳥四大寺に数えられていたほどの大寺院であった。天智天皇の治世に建てられたとの説がある。

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1191年、炎上し、その後、数度焼失している。現在の川原寺は、この川原寺跡地の一角にある、真言宗のとても小さな寺である。

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跡地の中心には、お堂の跡であろうか、礎石が残っている。

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こちらにも遺跡が・・・

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現在の川原寺(弘福寺)である。

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本堂であろうか?ミニマムである。

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レストランを経営しているようだ。そういや腹が減った・・・      

2009年6月18日 (木)

飛鳥歴史探訪(その5:橘寺)

橘寺にやってきた。

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西門の前は、自転車が並んでいる。みなレンタサイクルである。我々も停める。

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西門をくぐる。

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右手に本堂がある。

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桜が咲いていた。桜の奥は、護摩堂である。

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本堂である。ここは、聖徳太子縁の寺で、太子が生まれたとする地が近くにあるということだ。本堂の名も、太子殿である。太子堂の右手にある馬の銅像は、黒駒という太子の愛馬ということだ。橘寺は天台宗のお寺で、正式には、仏頭山上宮皇院菩提寺というややこしい名前だ。本尊は聖徳太子と如意輪観音である。

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観音堂である。その名の通り、如意輪観音を祀っている。

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ひんづるさんか?

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ええ表情してまっせ!

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如意輪観音である。

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境内の傍らに三光石がある。聖徳太子が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃をしたとき、太子の冠から日月星の光が輝くという奇跡が起こった。この石はそのときの様子をイメージしたものだが、実際は、何のための構造物なのだろうか?

三光石のすぐ後ろには、阿字池というしょぼい池がある。聖徳太子が作ったというが・・・

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かつての橘寺には五重塔があったようだ。

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五重塔の心礎である。

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経堂である。

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阿弥陀如来のようである。

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太子殿の奥に、二面石がある。橘寺といえば、この二面石である。左は悪面、右は善面を表していると言われている。

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悪?

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善?

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最後にいよいよ太子殿を見学する。

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中には、飛鳥時代の仏像が普通に祀られており、ただ驚愕するばかりであった。 

   

 

2009年6月15日 (月)

飛鳥歴史探訪(その4:亀石)

天武・持統天皇陵から自転車を走らせる。途中、田んぼのあぜ道で、JINが停まった。

JIN:土筆ないかなあ~

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

せっせと土筆を探すJINを微笑ましく、見下しながら、待つこと十数分。ようやく堪能したらしい。JIN曰く、季節のものを食べねばならんが、土筆はまだだっと・・・

後日、佃煮を作ったと画像付きメールが届いた。

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

亀石である。

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明日香は謎の石造物で知られるが、中でも、シンボル的なのが、この亀石である。伝説では、かつて奈良盆地一帯は湖だったそうな。。。あるとき、対岸の当麻のヘビとここ川原のナマズが喧嘩をしたそうな。。。その結果、当麻に水を盗られ、湖は干上がり、住んでいた亀が死んでしまった。村人は亀の供養のため、「亀石」を造ったとな。。。

亀石は北→東→南西と向きを変えているそうな。。。もし、西(当麻)を睨むと、奈良盆地は湖底に沈むらしい。すごいぞ!亀石!

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亀石はとにかく人気で、絶えず人だかりがあった。

ところで、亀石の隣は、売店になっており、自販機、ベンチ完備である。JINはここで草餅を買って食べた。そのおこぼれを私も頂いたことを、申し添えておく。 

2009年6月10日 (水)

飛鳥歴史探訪(その3:高松塚古墳、文武天皇陵、天武・持統天皇陵)

鬼の俎・鬼の雪隠を見学した後、ひたすら自転車を漕ぎ、高松塚古墳にやってきた。

といっても高松塚古墳の内部は当然見られない。しかも、現在、工事中である。

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このように、鉄のカーテンで囲まれている。一応、のぞき窓があるので、のぞいてみた。

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内部の復元は同じ敷地内にある高松塚壁画館で見学できる。

中に入ると、壁画のレプリカが展示されている。東西南北に、四神(朱雀は盗掘穴にあたるため、現存せず。)や女性の絵が描かれている構図はあまりにも有名である。壁画館の一方の壁のガラスケースに、壁画が完全に含まれているのだが、もう一方の壁のガラスケースも壁画がある。何かなと思うと、まったく同じ復元を二つも展示していた。

また、石室の模型も展示されている。

かつて見学したときの印象だと、もう少し大きな展示室だと思っていたが、思い糞、狭かった。よくできた復元で、近年発覚したカビ事件により、現在の実物は、こんなにきれいではないので、かつての美しさを見るために、一度は見学をお奨めする。

壁画館から這い出し、少し、周囲を散策していると、新たに古墳が現れた。

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文武天皇陵である。天武天皇の息子の草壁皇子の息子である。

ところで、今まで、そして、今後、○○天皇陵とあるが、古代の天皇陵が実際に、その天皇を葬っているかどうかは眉唾である。ほとんどは江戸時代に、文献を元に、かなり推定であてはめたようだ。中には、時代と合わない造りの天皇陵もあるらしい。この文武天皇陵も胡散臭いようで、真の文武天皇陵は違うところにあるという説が有力だ。

高松塚古墳の近くに帰ってきた。

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別角度だと、工事の様子がよく分かる。

ふたたびチャリンコをまたぎ、漕ぎ出す。

長いライディングの末、またまた古墳が現れた。

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天武・持統天皇陵である。

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天武天皇と持統天皇の夫婦合葬墓である。先ほど、古代の天皇陵は眉唾と記述したが、この天皇陵だけは、ほぼ間違いないようだ。

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さて、再びチャリンコに乗りますか!   

 

 

2009年6月 9日 (火)

飛鳥歴史探訪(その2:鬼の俎、鬼の雪隠)

農道をJINと二人、自転車で走る。1/6の夢旅人がBGMで流れてきそうだ。

やがて、農道沿いに忽然と巨石が現れる。

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自転車を停め、見学する。

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鬼の雪隠である。雪隠とは、便所のことである。

鬼の雪隠と反対側にある高台には、鬼の俎(まないた)がある。

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ご覧のように、平べったい石である。

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言い伝えでは、昔、この辺りに鬼が住んでおり、通行人を襲ったそうな。俎で調理し、雪隠で糞を垂れたらしい。

ま、実際のところは、古墳の一部ということだ。雪隠が石室で、俎が底石であるということだ。

それにしても、昔来た時もしょぼかったというイメージがあったが、やっぱりしょぼかった。マニア心をくすぐる一品であった。    

2009年6月 8日 (月)

飛鳥歴史探訪(その1:猿石)

平成21年3月21日。JINと飛鳥に行くことにした。

今、関西の私鉄が熱い。数年前にとある事情から阪急・阪神の統合があったばかりだが、平成21年3月20日に、近鉄と阪神の業務提携から、なんと三宮から奈良まで一本の電車でいけるようになったのだ。これは、かなりの大革命と言ってよい。まさかこんな日がくるとは・・・。これで、ますますJR包囲網が強固になったのだ。ま、そんなことより、この際、奈良に行くことにしたが、私のたっての願いで、行き先は飛鳥である。15年ぶりくらいだろうか?楽しみだ。

阪神電車から近鉄に数度乗り換え、飛鳥に着いた。

駅前で、レンタサイクルを借りる。飛鳥は、見るところが点在しており、車は不便な田舎道なので、自転車が便利なのである。

まずは、猿石を見る。

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この先に、吉備姫王墓がある。吉備姫とは、欽明天皇の孫で、皇極天皇の母らしい。

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こちらが吉備姫王墓で、この柵の中に猿石という謎の石造物があるのだ。猿石は全部で四体ある。

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手前が「山王権現」、奥が「女」である。

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こっちの手前が「僧」で、奥が「男」である。

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どの辺が山王権現やら僧やら、男やら女やら、さっぱり分からんし、そもそも何故猿石?

渡来人がモチーフという説もある。歴史ロマンですな。

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宮内庁の立て看板が・・・

魚はおらんやろ!?

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吉備姫王墓を後にした。

すぐ近くには、欽明天皇陵がある。

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欽明天皇といえば、仏教伝来の時の天皇である。

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先ほどの猿石は江戸時代にこの欽明天皇陵の南の田んぼで発掘された。それを何故か吉備姫王墓に並べたのだ。なんでそうしたのか?

では、次に行く。

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2009年6月 7日 (日)

播磨の旅Ⅱ(その2:斑鳩寺)

綾部山梅林を後にし、やってきたのは、太子町にある斑鳩寺である。

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太子?斑鳩?

そう聖徳太子縁の寺である。町もそういうことで名づけられたのだ。

風邪で爆裂的に鎮圧したぎーさんを車内に残し、JINと二人で見学する。

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聖徳太子が推古天皇から播磨に土地を賜り、移住して、伽藍を建立したという伝承がある。播磨に水田を賜ったこと自体は、史実としてあるらしい。斑鳩寺は、もともと法隆寺傘下の大寺院であった。赤松VS山名の抗争に巻き込まれ、焼失したが、その後、復興し、天台宗に改宗している。

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なかなか立派な仁王像である。ちょっと目つきが怪しい。

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入って正面が講堂である。

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三重塔である。

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左側に聖徳殿がある。

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まずは、講堂へ。。。

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賓頭盧尊者か?目がぎょろっとしている。

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講堂から聖徳殿を見ると、奥の建物が特徴的であることがわかる。どうも法隆寺夢殿を模しているらしい。

講堂に続いて、聖徳殿を参拝する。

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聖徳殿の裏手に廻ってみた。

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しげしげ眺めていると、JINが逆方向からやってきた。普通は一緒に廻るのかしれないが、それぞれ興味が涌くと、思い思いのところを見だす。いつものことであるが・・・

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奥のほうに庫裡があった。

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庫裡とは、まあ、寺務所というか、僧侶の居住する建物である。

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さあ、ぎーさんも真っ白に燃え尽きているし、帰りますかね。。。

おしまい。    

      

2009年6月 4日 (木)

播磨の旅Ⅱ(その1:綾部山梅林)

平成21年3月20日。

JINとぎーさんで播磨の辺りをちょいとドライブしてみた。

兵庫県たつの市御津町に、綾部山梅林という梅林がある。海が見える梅林として少し有名である。JINがちょっと行ってみないかと提案してきたので、行くことにしたが、3月も下旬になって果たして梅が咲いているのか?

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

梅林の駐車場に着いた。駐車場の前は見事な菜の花畑だった。

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ところで、ぎーさんは、車に乗っている間に風邪を発症してしまい、最初からクライマックスであった。

ぎーさんを車に残し、散策することに・・・

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ゲートをくぐる。

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どう見ても客がいない。。。

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入り口近くで比較的よく咲いている梅が一本あった。

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鳥発見。

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私は鳥はよくわからないが、調べたところ、ジョウビタキではないかと思う。もしそうならば、冬の渡り鳥だ。

延々と丘を登るが・・・

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梅の花は既に散ったようだ。

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数少ない梅の花を接写してみる。紅梅だ。

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普通の梅の花である。

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梅さえ咲いていれば、さぞ絶景だったろう。

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家島と思われる。

ところで、神戸新聞が主催して、姫路お城の女王とかいうものを選んでいるらしい(長い間、神戸新聞を読んできたが、そんなことは知らんかった。)。そのお城の女王を呼んで、毎年撮影会をしているそうな。

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受賞作である。

ブラボー!

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梅林に佇む地蔵様。

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菜の花きれいやね。

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予想できたことだが、ほとんど梅が散っており、見るも無残であった。その代わり、菜の花が満開だったので、急遽、菜の花を見に行くことに・・・

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駐車場前の菜の花畑である。

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美しい。

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2009年6月 1日 (月)

下関決闘編!(その5:日清講和記念館)

赤間神宮のすぐそばに日清講和記念館がある。

明治28年、春帆楼というふぐ料理屋で日清戦争の後始末、日清講和会議が開かれた。そのときのセットを展示している施設なのである。

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てくてく歩いていると、伊藤博文と陸奥宗光の胸像が・・・

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こちらが記念館である。ま、せっかくだから入る。

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こんな風に椅子が並んでいるだけである。

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当時の様子が描かれている。

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伊藤博文と陸奥宗光の席である。

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こっちが清国代表の李鴻章の席である。

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日清戦争というと、日本と清の戦争を意味するが、実は清側が戦争に参加していたのは、李鴻章の私軍である。つまり、李鴻章軍VS日本軍という構図なのである。逆に言えば、李鴻章だけに頼るほど、清が脆弱化していたという見方もできるのでは?

ところで、日清戦争といえば、「まだ沈まぬや定遠は・・・」という名文句がある。

元阪神監督藤本定義が優勝戦線でこの台詞をつぶやいたとかつぶやかないとか・・・

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記念館の前の道は、李鴻章道とかいうらしい。。。

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何の変哲もない生活道路なんだが・・・

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

今回の視察はこれでおしまいであるが、最後に門司に渡り、門司レトロで焼きカレーを食べたことを記しておく。

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