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2009年3月

2009年3月30日 (月)

ローマな休日(その20:ローマ街歩き、夜)

ポポロ広場にやってきた。すっかり暗くなった。

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オベリスクの両側に双子教会が立っているのだが、暗くてよく見えない。

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このオベリスクは、アウグストゥスがエジプトから持ち帰ったもので、36メートルもある。

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まあ、ポポロ広場はまた明るいときに来よう・・・

ポポロ広場からバブイーノ通りを歩いていると・・・

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これが、バブイーノ通りの由来となった像である。半人半獣の神サティロスの像ということだが、ご覧の醜さから”バブイーノ(猿)”とローマ市民から呼ばれた悲劇の像である。それにしても、不細工だ。なんか蓬色のセーターを着るおばあさんに見える。

スペイン広場近くのレストランで夕食にする。

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カルボナーラとリゾットとピザを頼んだ。カルボナーラはとにかくショックを受けた。ぼそぼそで味も・・・_ノフ○ グッタリ

全体的にやはり塩辛く、水が進んだ。

食後、スペイン広場にやってきた。

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昼間は観光客でごった返すのだろうが、夜ともなれば、客も割りと少ない。なんか蛍光の輪を投げる親父がたくさんいる。。。

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スペイン階段の上には、トリニタ・デイ・モンティ教会がある。入ってみた。

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キリスト降架の絵である。

教会を出て、スペイン階段を上から望む。

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このオベリスクの前には・・・

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スペイン大使館がある。

暗くて、分かりにくいのでスペイン広場については、明るいときにする。

最後にかの有名なトレヴィの泉にやってきた。

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やたら観光客がおり、そして、蛍光輪投げ親父もたくさんいた。流行っているのか?蛍光の輪を上に投げながら、練り歩き売りに来るのだが、手に何か持っているらしく、ギッギッと音を立てる。

トレヴィの泉も明るいときバージョンで詳しく説明するが、夜の泉も幻想的で美しかった。ちょっと寒いが・・・

ホテルの近く、昨日夕食をとったカフェ・ド・パリでお茶にする。

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ティラミスを食べた。しかも立ち食いで・・・

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日本で食べなれた味ではなかった・・・

美味しいには美味しいが、妙にあっさりしており、たまげた。

店員に「スタンディング」というと、怪訝な顔をされた。コーヒーだけなら普通だろうが、ケーキ食うのに立ち食いかよっ!ってなものだろう。。。    

      

         

2009年3月27日 (金)

ローマな休日(その19:サン・ピエトロ大聖堂Ⅱ)

木戸を開き、いよいよサン・ピエトロ大聖堂の内部に潜入する。ちなみに、直前に出口のほうから入ろうとして、ガードマンに睨まれた私をJINは目撃したらしい。

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あまりの荘厳さに息を呑む。

サン・ピエトロ大聖堂は4世紀にコンスタンティヌス1世により建設された。最も現在のものは、二代目で1626年完成である。

聖ペトロの墓があったとされる場所に建てられており、そのため名をサン・ピエトロと称するのだ。

ちなみにローマ教皇の司教座教会は、14世紀まで、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂であったが、教皇が教皇のバビロン捕囚から戻ってからは、こちらに移った。

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入って、すぐ右側には、ミケランジェロ作”ピエタ”がある。このピエタは、ミケランジェロがまだ若く無名だったころの作品である。なんでも完成後、サン・ピエトロ大聖堂を訪れたミケランジェロは、見学者が別人の作品だという発言を聞き、ショックを受けたらしい。そこで、夜中に忍び込み、胸元の帯に自分の名前を彫ったということだ。ということで、この”ピエタ像”は彼の作品の中で唯一署名の入った作品なのである。

ちなみに、ピエタとは、死後十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵のことである。

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あまりの凄さに完全に放心状態である。さすが、カトリックの大本山なのである。

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聖ペトロ像があった。この像の左足は、昔から敬虔な信徒が接吻をしてきたため、磨り減っているのだ。私はかねてから、この像を見たかったのだ。というか、この像を見るため、サン・ピエトロ大聖堂までやってきたといっても過言ではない。こんなことを言って、分かってくれるのは、私の周りではマニアな監督くらいだろう。。。

ところで、聖ペトロ像に行くまでに、バリケードではないが、簡易的な柵があり、それより向こうには、入り口は一箇所しかなく、怖いガードマンが立って、寄り付く人々を追い返していた。

JINは颯爽と歩き、強面ガードマンと交渉し、なんなく入る。私もこそこそと入り、どうやって入ったか聞くと・・・

JIN:ミサを受けるのか?と聞かれたから、受けますって答えただけやで・・・

本場のミサを受ける。なんか歌っているが、歌詞とか分からんし、フンフンとハミングしてやった。

坊主退場!

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ミサが終わったので、ゆっくり大司教座の祭壇を見てみよう。

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もっと前で見てみよう。

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この大司教座の祭壇は、ご存知ベルニーニの作品である。ベルニーニの時代に聖ペトロの王座と思われていたものを入れる聖遺物入れである。ちなみに、道徳や信仰に関する質問を受けるとき、教皇はこの王座に座るらしい。   

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まったく素晴らしいとしか言いようがない。

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天井もすごいことになっている。

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こちらはパイプオルガンである。

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JINに、

「ちょっとその辺、探検してくるわ!」

と告げ、席を立つ。

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こちらに聳え立っているものは、天蓋である。聖ペトロの墓を守り、敬意を表するためのものだという。この天蓋であるが、なんと、永遠のライバル、ベルニーニとボッロミーニの合作なのである。これは、キン肉マンとネプチューンマンがタッグを組んで、巌流島ドロップを決めるくらいすごいことだ。

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正面から聖ペトロ像を眺める。素晴らしい・・・ヽ(´▽`)/

悦に浸る。

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ちゅるちゅるですわ!

怪しげな笑みを浮かべていると、あの怖いガードマンに怒られた。

ミサが終わったんやったら、はよ、でてこんかいっ!

ということらしい。。。

で、強制退去。。。

仕方ないので、バリケードの外で、JINを待つ。

しばらくすると、JINが戻ってきた。

全然帰ってこんから、どうしたんやろ?と思っていたらしい。

あの親父に怒られたんですわ。。。

ま、気を取り直して、再びじっくり見て回りますか・・・

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興奮冷めやらぬまま、出てきた。

出口に銅版?の彫刻があった。

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殉教のシーンが描かれているらしい。なかなかグロい。

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それにしても素晴らしかった。明日もヴァチカン入りし、ヴァチカン博物館に行く予定だ。明日が楽しみである。

とりあえず、出国した。

2009年3月26日 (木)

ローマな休日(その18:サン・ピエトロ大聖堂Ⅰ)

本日の予定は、サンタンジェロ城で終了のはずだった。しかし、いつものごとく、私とJINの超ハイペースな移動のため、日没コールドまで時間がある。ちなみに、超ハイペースと言っても、見学時間は人一倍とっていたりするので、かなりのスピードで歩いているのである。ローマっ子などは、ごぼう抜きである。ロンドンっ子は、侮れなかったが・・・

まあ、時間が余ったので、明日に予定していたヴァチカン入りを果たすことにした。

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ヴァチカンへの道である。正面にサン・ピエトロ大聖堂が見える。

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ヴァチカンはカトリックの大本山である。ご存知の通り、世界最小国家で、国全体が世界遺産に登録されている。国といっても、ヴァチカン博物館の入場料や切手の販売の他は、国の予算をカトリック信徒からの寄付に頼っている。

いよいよヴァチカンに入門する。

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この柵の向こう側がヴァチカンだ。

入った。

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サン・ピエトロ広場である。

私もそうだったが、ヴァチカンに入国審査があるのかと思っている人が多い。私は、数年前に訪れた人に聞いたので、その誤解を解くことができた。ご覧のとおり、柵を越えるだけで入国である。

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サン・ピエトロ広場を囲むように大柱廊が建てられているが、この設計を手がけたのは、ベルニーニである。回廊の上には、ベルニーニの弟子たちが製作した聖人像がやたらめったに立っている。

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このオベリスクは、カリグラがエジプトから運んだもので、25メートルもある。このカリグラという皇帝は、かなりのとんでも皇帝だったようだ。金を湯水のように使い、女性関係もめちゃくちゃであったようだ。ここで、書くには、耐えないので、興味のある人は調べよう!

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本日は、ヴァチカン博物館が休みなので、サン・ピエトロ大聖堂を見学することにした。

サン・ピエトロ大聖堂に入るには、正面ではなく、少し外れたところにある、セキュリティチェックをまず受けなければならない。ある意味、これが入国審査のような気もする。ちなみに南アジアの某国はメトロに乗るにもセキュリティチェックが必要だ。

どきどきしたが、無事通過した。

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スイス衛兵かな?

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いよいよサン・ピエトロ大聖堂の入り口前までやってきた。

天井を見る。

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ドラゴン?

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ヴァチカンの紋章のようですな。。。 

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いよいよ内部に潜入する。

次回に続く。  

2009年3月25日 (水)

ローマな休日(その17:サンタンジェロ城)

ナヴォーナ広場から北西にてくてく歩く。

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サンタンジェロ城である。サンタンジェロ城に向う橋はサンタンジェロ橋という。

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橋の上から西を見ると、サン・ピエトロ大聖堂の玉葱(クーポラ)が見える。

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東側である。

橋の欄干には、天使の像が並んでいる。

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この天使像群は、ベルニーニの手による。   

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こ、これは・・・、十字架天使改めクロスエンジェル?

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サンタンジェロ城の天辺にも天使がいる。

いざ、サンタンジェロ城に潜入する。

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適当に歩いてると、正規ルートから外れたようだ。でも構わず、見学する。

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壁際に砲弾の山ができている。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・

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イタリア国旗とEU旗がはためいている。

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砲台のようですな。。。

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なかなか見晴らしがいいじゃないですか。。。

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どうも正規ルートに行けないので、仕方なく入り口付近まで戻ることにした。

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・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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入り口付近にちゃんと正規ルートの入り口があった。全くどうやったらあんな迷い方をするのやら?

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薄暗く、古城という感じがする。

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外の明かりが見える。やっと外のようだ。

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妙な球体に蜂が止まっていた。蜂といえば、ウルバヌス1世のバルベリーニ家の紋章である。

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サンピエトロ大聖堂である。

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左奥に”入れ歯”が見える。

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こちらは、最高裁判所と思われる。

ところで、サンタンジェロ城であるが、元々ハドリアヌスの霊廟として建立された。暫くすると、軍事施設化していった。6世紀にペストがローマを襲うと、ローマ教皇グレゴリウス1世が、この城の頂上に大天使ミカエルが現れ、剣を鞘に収める姿を目撃する。これが疫病の終焉を意味するとした。このことから、聖天使、すなわち、サンタンジェロと呼ぶようになったとさ・・・

そのときの大天使ミカエルが、

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これである。

ちなみにこのミカエルに一番近いサンタンジェロの頂上付近にくるまで、美術館があり、そこで、絵が気になっていると、JINが消えた。

”サンタンジェロに消ゆ”

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しばらく探したが見つからず、とうとうミカエルのところまで来たら、やっぱり御仁がいた。ま、こんなところだろうと思った。。。

ちなみに、JINは途中で、見知らぬおっさんを私だと思い、呼びかけた模様

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さて、戻りましょうかね。。。階段狭っ!

余談

そういえば聞いたことがある。。。

城の地下には抜け道が・・・

というような、キン肉マンのザ・マンリキVSミートのような展開はないが、なんか、サンピエトロ大聖堂とつながる秘密の通路があるという噂があるらしい。。。

   

               

 

2009年3月24日 (火)

ローマな休日(その16:ナヴォーナ広場)

パンテオンから西にしばらく歩くと、ナヴォーナ広場に出た。

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蛸の上にフルチンのおっさんが跨っているシュールな作品である。しかも、おっさんの立小便かと思いきや、蛸がデロデロと水を滴り落としている。奇抜な構図だ。ネプチューンの噴水と言うらしい。19世紀のものだとか・・・

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インダス、ナイル、ドナウ、ラプラタの四つの大河を擬人化した彫像、四大河の噴水がオベリスクを囲んでいる。この四大河の噴水は、ベルニーニの作品である。

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布を被っているのは、ナイルの像である。ちょうど背後にベルニーニのライバルであるボッロミーニ設計のサンタ・ニェーゼ・イン・アゴーネ教会がある。ベルニーニが、ボッロミーニ設計の教会を揶揄し、教会が倒れそうでっせ!見てられまへん!と言ってるんだと、市民はジョークのネタにしたとか、しないとか・・・

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こちらは、ムーア人の噴水である。海豚と戦うおっさんが黒人に見えるため、そう呼ばれるらしい。

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海豚?

魚の間違いでは?

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ゲロゲロゲロゲロゲロゲロ・・・・・・・・

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デロデロデロデロデロ・・・・・・・・・

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広場で、地図を広げ、次に行くところをJINがチェックしていると(カーナビシステム搭載済みのJINにとっては、非常に珍しい)、やたら陽気なイタリア人が近づいてきた。

やたら笑いながら、ミサンガを私の手につけようとする。

明らかに怪しい。丁重に断ったが、ひつこいので、断固として拒否した。ムスッとしながら、去っていったので、よかった。

ローマは全く恐ろしい所だ。こんなことはインド以来である。インド人悪徳商人はもっとひつこかったので、とうとう私の逆鱗に触れてしまったが・・・

こんな恐ろしい広場はさっさと去ることにした。

      

2009年3月23日 (月)

ローマな休日(その15:パンテオン)

昼食後は、路面電車(トラム)で移動する。もちろんローマパスが使える。全く便利な代物だ。

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チンチン電車と呼ばず、トラムと呼ぶだけでお洒落に聞こえるのは何故だろう。。。

やがて、トラムが終点に着いたらしい。しばらく気づかず、座っていると、運転手が教えに来てくれた。私たちの他にも、明らかに地元民ではない、おそらくヨーロッパの他の国の人々が同様に、終点と分からず、座っていた。皆で、ぞろぞろと地元民に遅れて、下車する。

しばらく、歩くと、サンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ教会前にやってきた。

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この教会の前のオベリスクの台座は、ベルニーニ考案の象の像である。象なのに、「ひよこ」とか呼ばれているらしい。意味分からん!

サンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ教会については、後に再訪するので、そのときに記述する。

サンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ教会の北西には、ロトンダ広場がある。

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そして、その南には・・・

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パンテオンがある。

パンテオンは元々、様々なローマの神々を奉る万神殿である。初代パンテオンは、アウグストゥスの右腕アグリッパの建立である。ちなみに”あぐりっぱ”とキーボードを叩き、変換すると、「亜具立派」になった。

初代パンテオンは、その後、焼失し、現存するものは、二代目である。ちなみに、初代が紀元前25年建立で、二代目は120年頃でハドリアヌスにより、建立された。

608年にキリスト教の聖堂と生まれ変わったので、現在でも原型を留めている。

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では、早速、内部を拝観する。

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外観は古代ローマチックだが、内部は、キリスト教になっている。不思議空間だ。

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私にとっては、超有名人のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の墓である。

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キリスト誕生秘話であろうか?

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天井にはぽっこり穴が開いている。

この他にもラファエロの墓があるらしいが、よく分からんかった。

ところで、やたら怪しい旅行者がいた。某国の御仁と思われる。爺とガイドさんの二人組みなのだが、とにかく爺が偉そうだった。ガイドさんの説明に、難しそうな顔をして、聞いているのか、聞いていないのか・・・。こんな素晴らしい建造物を見て、何の感動も沸かんのか?ガイドさんが写真を撮ると言ったらしく、カメラを構えた。すると、親父は、苦虫を噛み潰したような顔で腕組み・・・。┐(´-`)┌

ちょっと不愉快であった。

パンテオンをでた。

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ゲロゲロゲロゲロ・・・・・・・・・・・・   

      

2009年3月18日 (水)

ローマな休日(その14:サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会)

トラステヴェレには、サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会の他にも、・・・イン・トラステヴェレ教会が存在する。それが、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会である。というか、本当は、こちらを行こうとして、間違えたのが、先ほどのサンタ・チェチリア教会である。ま、結果論から言えば、予想以上に良かったので、間違いは正解だった。

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なにやら御仁が立っていらっしゃる。その向こうのモザイク画は、キリストに授乳する聖母を中心に、ランプを持った聖女たちが描かれている。

では、中に入る。

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教会の天井は、どこも美しいものだ。

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さて、この教会は、教皇カリクストゥスの創建と言われており(221年)、ローマで一番古い教会堂と言われている。その後、インノケンティウス2世により再建されている(12世紀初頭)。

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後陣の半円ドームのモザイク画は、「聖母の戴冠と諸聖人」 である。キリストが聖母に冠を被せ、玉座に座らせているシーンである。その下の12匹の羊は、12使徒を表現しているらしい。

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サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ教会を出た。

...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。...。oо○**○оo。

そろそろ腹が減ってきたので、昼飯にする。

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ピザを食った。美味かったが、驚くほど美味いという訳ではなかった。それにしても、ローマの食事は塩辛いのか、喉が渇く。水がよくすすむ。          

2009年3月16日 (月)

ローマな休日(その13:サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会)

カラカラ浴場から西方のトラステヴェレ地区まで歩く。

トラステヴェレとは、「テヴェレ川の向こう」という意味だ。

その前に・・・

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真実の口である。映画「ローマの休日」で王女と新聞記者がデートしてる際にでてきた、あれだ!

口に手を入れると、嘘つきは手が抜けなくなるという伝説があり、映画では、新聞記者が冗談で手が抜けなくなる振りをするという、お約束シーンがある。

ちなみに、この顔面は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の入り口にあり、教会の外壁から1632年に発見されたもので、元は、古代ローマの井戸の蓋だったらしい。モチーフはトリトンだ。

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教会に入っていく人は少ないが、「真実の口」の前は、口に手を入れて、写真撮影する人で行列ができている。人が少なければ、順番待ちして、同じこと、否、「ローマの休日」の1シーンをJINとともに、完全再現するところだが、こんなに人だらけでは、順番が来るのに、何分待てばいいのやら?

JINと協議の上、こんなもんより見たいものがあるという結論に達し、歩き出した。

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なお、真実の口の前には、ヴェスタの神殿がある。

歩いていると・・・

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警官がセグウェイで颯爽とパトロール中であった。日本では公道で走れないあれだ。初めて、現物を見たような気がする。

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石畳石畳

私が山川豊の「アメリカ橋」の一節を口ずさむと、JINが続きを歌いだした。それどころか、JINの頭から離れず、この旅中、何度もこの曲を聞く羽目になってしまった。

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テヴェレ川である。 古代ローマでは「澄んでいない川」という意味で「ティベリス川」と呼ばれていたそうだが、マジで濁っている。昨夜や今朝の雨で濁っているのか、普段から濁っているのか・・・?

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ふと見ると、釣りを楽しむ人がいた。こんな所で釣れるのかしら?

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サンタ・チェチリア・イン・トラステヴェレ教会にやってきた。

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3世紀に殉教した聖女チェチリアの名を冠する教会である。

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入り口には、何やら遺物が貼り付けられている。そういや、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の回廊でも、貼り付けられていたが、こういうの流行っているのか?

中に入る。

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なかなか教会内は明るい。

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美しい天井画だ。

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祭壇の下に何かいる。

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この包帯にくるまれた人物像は、マデルノ作「聖女チェチリア像」である。聖女チェチリアは3世紀に、斬首刑に処せられる。しかし、彼女の首を切り落とすことはできなかった。当時の法で3回以上剣を振り落としてはいけないというものがあり、釈放され、三日間生き続けたらしい。

1599年に、この教会を改修した際、当時のまま彼女の遺体が発見されたことを記念し、そのままの大きさ、形で像を作ったのだ。首筋に切り込みが深く入っている。

我々は、そんなことは知らないので、ミイラ男だと思った。

厳かな雰囲気の中、シスター群が現れた。なんとここでもミサが始まったのである。今日は確変入っているらしい。。。   

2009年3月14日 (土)

ローマな休日(その12:カラカラ浴場)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂から、人間GPSであるJINのナビどおり歩くと、ローマの城壁に出た。

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やがて、カラカラ浴場についた。

ところで、”よくじょう”とタイプすると、”欲情”と変換されるのは何故だろう・・・

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早速、中を見学する。

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カラカラ浴場であるが、カラカラ帝時代の浴場である。以上、説明終わり。

それにしても馬鹿でかい。何でも図書館やら何やらを兼ね備えたアミューズメントパークだったようで、どこの部分が風呂だったのか、よくわからん。

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そういや、去年は、イングランドでローマ式の風呂見たな・・・

ローマン・バス

しかし、規模がぜんぜん違う。タイムマシンがあったら、当時の施設が見てみたい。

でも、当時の浴場は男性同士の出会いの場(当時は同性愛がごく普通の愛の形だったらしい。)でもあったらしいので、ちょっと怖い。

ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ

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なんか変な石が置いてある。。。

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この穴がお風呂だろうか・・・?

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壁画?の一部が無造作に置かれている。盗難とか大丈夫?

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この微妙な形を見て・・・

JIN説:1upきのこ

まーくん説:卑猥な物

最悪の感想でカラカラ浴場を見学し終える。

再び歩き出すと、陸上競技場があった。

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私的にはどうでもよかったのだが、もと陸上部のJINの興味を惹くには充分だったらしい。

続いて、フォロ・ロマーノの近くのチルコ・マッシモにでた。

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本当にこんな「金八っつぁん」の登校シーンに出てくる河川敷くらいの広っぱで戦車競争をやってたんやろうか・・・? (´~`)。゜○

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最後に謎のおっさんの彫像を発見したことを報告する。         

2009年3月13日 (金)

ローマな休日(その11:サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)

コロッセオから本当はバスに乗ろうとしたが、なかなか来ないので、諦めた。で、結局ひたすら歩く。

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てくてく歩いてやってきたのは、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂である。

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ローマの四大バシリカの一つである(残りは、サン・ピエトロ大聖堂、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂)。

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バシリカの前の広場には、オベリスクが立っている。

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このオベリスク、ヒエログリフが書かれている。

元々トトメス三世によって建てられたものを、チルコ・マッシモに立てるためにエジプトから運ばれてきたもので、その後、こちらに移築されたのだ。

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ファサードに悩ましげな髭の男性が描かれている。

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なかなか美しい天井画である。

早速、中を見学しよう。。。

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おや?なんかやっている。

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ミサのようである。

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早朝のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に続き、ここでもミサを見れるとは、ついている。ま、日曜日ですから・・・( ̄ー ̄)ニヤリ

ミサの邪魔をしないように、静かに内部を見学する。

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こ、これは・・・

噂の皮聖人ではないくわーーーっ

キリストの使徒の一人で、生皮剥ぎの刑で殉教した聖バルトロマイと思われる。

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美しい装飾にうっとり

JINも神妙に見学している。ま、こんなところで騒いでいたら阿呆である。

ここは、とてつもなく由緒正しい教会である。何を隠そう、ここに隣接するラテラノ宮殿は、教皇のバビロン捕囚により、教皇がアヴィニョンに移されるまで、教皇の住まいであったからである。

ちなみに建物は、何度も修復され、現在のものは、17世紀のバロックの巨匠ボッロミーニが大改修したものである。ちなみに、ボッロミーニは、ローマ中に噴水造りまくりのベルニーニのライバルである。

回廊も見学できるとあったので、€2払って、見学することになった。

シスター?にお金を渡すと、お釣りが返ってきた。つい、インド以来のいつものくせ?でお釣りの小銭をしげしげを見つめると、シスターに苦笑いされた。

いやっ疑うつもりはないんですよ。。。

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お!?

なんかぐりぐりの柱が立っている。

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壁面には、発掘したような彫刻が貼り付けられている。これは、骸骨?

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向かいの屋根に何かいらっしゃる。

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この柱は、モザイクが結構残って美しい。   

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ぐりぐりの柱を見て、彬のマフラーを思い出した。

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こちらは博物館のようだ。

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正面はカーペットである。

回廊を後に、教会内に戻る。

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美しい装飾に心惹かれながら、大聖堂を後にした。                  

   

2009年3月12日 (木)

ローマな休日(その10:コロッセオ)

コンスタンティヌスの凱旋門の北東には、コロッセオがどーんと立っている。

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コロッセオとは、古代ローマの闘技場である。つまり、剣闘士が血みどろの戦いを演じた場所である。

ネロの黄金宮殿の人工池跡に建てられたもので、工事は、75年にウェスパシアヌス帝が始めた。ティトゥス帝時代から使用されはじめ、ドミティアヌス帝時代に完成したということだ。

早速中に入る。

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ローマ・パスのおかげで、チケット売り場で並ばずにすんだ。

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どこから見たらいいのかよくわからないので、適当に階段を上る。

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二階は、ちょっとした博物館のようになっている。

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レプリカのようだが、結構展示は頑張っていた。

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ふと外を眺めると、フォロ・ロマーノが見えた。密かに奥のほうで、入れ歯も写っている。

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いよいよコロッセオのメインである。

剣闘士が技を競ったグラウンドは、現在、底が抜けて、地下の施設がむき出しになっている。

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闘技場の三分の一ほどがコンクリート?で覆われている。ローマ帝国時代の闘技場を再現しようとしているのか?

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下に降りてみよう。

ところで、コロッセオと言えば、映画「グラディエーター」である。グラディエーターの舞台は、コンモドゥス帝時代である。あの映画で登場する根性の悪い皇帝のモデルがコンモドゥスなのである。あの鉄人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの息子だが、当初は遊び好きのどら息子だった。暗殺未遂事件をきっかけに、猜疑心の塊になり、おかしくなったのだ。臆病者でありながら、剣闘士に憧れ、また才能があったらしい。自ら討闘技場デビューを果たし、残忍な催しをしたとのことである。

ちなみに、暗がりの階段を下りながら、私は、「グラディエーター」のことより、「ドラゴンへの道」のブルース・リーVSチャック・ノリスを思い出していた。

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下に着いた。上で見たときも壮大であったが、下から見たほうが、圧倒的である。

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コロッセオの圧倒的な存在感に、私もJINも大いに感動したのであった。

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名残惜しくも、コロッセオをでた。                

2009年3月11日 (水)

ローマな休日(その9:フォロ・ロマーノⅢ、コンスタンティヌスの凱旋門)

あまりにも好奇心に身を任せ、パラティーノの丘を散策したため、なかなかフォロ・ロマーノに帰ってこられなかったが、なんとか帰ってこられた。

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前々回にも紹介したティトゥスの凱旋門である。伝染病の蔓延時に自ら看護の陣頭指揮にあたったため、自らも感染し、死亡した善良な皇帝である。しかしながら、エルサレム攻略の英雄ということで、ユダヤ人にとっては、悪人なのかな・・・?

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マクセンティウスのバシリカである。先ほどは、高台から見たが、近くまでやってきた。マクセンティウス帝により308年に起工し、コンスタンティヌス1世が312年に完成させたバシリカである。他のバシリカとは建築様式が異なり、皇帝浴場に似ているらしい。

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内部にこの六角形のグルグルがあった。これは、ひょっとして、ス○ラー電○波を防ぐために・・・?

それにしても観光客が増えてきた。我々が到着した頃は、先客は二組くらいであった。しかも、やたら日本人が増えている。

日本人が続々と来る中、フォロ・ロマーノを出た。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

フォロ・ロマーノを出ると、すぐに「コンスタンティヌスの凱旋門」が立っている。

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コンスタンティヌスの凱旋門の北東には、かの有名なコロッセオがある。

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コロッセオについては、次回潜入するとして、コンスタンティヌスの凱旋門に戻す。

コンスタンティヌスの凱旋門は、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝に勝利した記念に315年に建設された。ディオクレティアヌスのローマ四分割統治のあと、マクセンティウスの蜂起により混乱したが、それを収めたのがコンスタンティヌスである。ローマ市民の大喝采の中、ローマ入りを果たすのだが、当のコンスタンティヌスは、ローマを見捨て、コンスタンティノポリスを建設した。

さらに、コンスタンティヌスは、ミラノ勅令により、キリスト教を公認した皇帝である。まさに西洋史にとっては、とんでもなく意義深い業績を成し遂げた人物なのである。

ま、薀蓄はここまで、じっくり見ようっと・・・

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内側には、戦士たちの彫刻が施されている。なんとなく、インド門を思い出した。おっと、インド門は、「まーくんの旅日記」で書いてなかったな。。。また、インドの話は書きますよっと!

さて、コロッセオに行きますかね。。。 

   

2009年3月10日 (火)

ローマな休日(その8:パラティーノの丘)

フォロ・ロマーノの南側にはパラティーノの丘がある。ローマ建国の英雄ロムルスとレムスが住んでいたとされる伝説の聖地で、帝政時代に歴代皇帝が宮殿を建てた。そういった宮殿はパラティウムPalatiumと呼ばれた。英語のパレスの語源である。

パラティーノの丘からは、フォロ・ロマーノが一望できる。

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おやおや屋根に騎士を乗せたド派手な建物は、”入れ歯”ことヴィットーレ・エマヌエーレ2世記念堂じゃないですか!

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さて、パラティーノの丘を散策する。

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なんか迷路みたいだ。

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パラティーノの丘の南側に河川敷のような広っぱがある。これは、紀元前600年ごろの競技場跡である。映画「ベン・ハー」で登場した戦車レースなどが催されたようだ。しかし、ベン・ハーを見たが、もっと広大な敷地でレースが行われていたと思ったが、予想外に狭かった。これならば、淀川河川敷のほうが広大だ。ひょっとした加古川河川敷のほうが面積が広いかもしれない。

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おう!謎のストーンサークルか?

それにしても、好奇心に惹かれ、あちらこちらに動きまくったせいで、帰り道が分からなくなった。厳密に言うと、元来た道を帰ればいいのだが、同じ道を歩きたくないので、なんとか、新しい道でフォロ・ロマーノ帰還を試みた。結果、かなり長い時間をくってしまった。

次回は、フォロ・ロマーノに無事帰ることができたかどうか。。。      

   

2009年3月 8日 (日)

ローマな休日(その7:フォロ・ロマーノⅡ)

遺跡巡りで遺跡酔いしたところで、いったんトイレ休憩をする。トイレから出てくると、かなり本格的に雨が降ってきた。

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この柱はよく分からん。

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こちらは、ディウウス・カエサル神殿である。アウグストゥスによって建立された神格化されたカエサルの神殿跡である。

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脇から裏に回れた。

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意味ありげに花束が・・・

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カエサル神殿を見た後、てくてく歩いていると・・・

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何かの紋章ですかね?

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ウェスタ神殿である。火の女神ウェスタを祀る神殿であり、この中で、聖なる火を燃やし続けていたらしい。セプティミウス・セウェルスの建立で、現在のものは1930年代に復元されたものである。

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初めに見たアントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿である。

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JINがどんどん上っていくので、金魚の糞状態でついて行く。

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それにしてもガイド本には書かれていない、よく分からない遺跡がたくさんある。何か分からないのが、悔しい限りである。

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ちょっと離れたところにティトゥスの凱旋門が見える。現存するローマ最古の記念碑らしい。ユダヤ戦争の戦勝記念ということだ。ティトゥスはローマ史上最高の名君と呼ばれるが、とにかくついてない皇帝である。まず、ローマ大火、ついでヴェスヴィオ火山噴火によりポンペイ全滅、そして、伝染病の大流行である。ティトゥスは度重なる災害に直面し、被災者への救援を惜しまなかった。伝染病患者の看病まで皇帝自ら行い、最後は自分も病に倒れたわけだ。皇帝になって2年後に病死である。いい人は、早死にするってことでしょうか。。。

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上ってきたところを振り返ると、正面にマクセンティウスのバシリカが見える。

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近くから滝の音が聞こえる。

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建物の内部を見ると、水が落ちて、滝になっていた。

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どうやらこの階段で上りきったようだ。

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こちらがさっきの滝の水源のようだ。結構きれいな水である。

ここからさきは、パラティーノの丘である。

次回へ続く。

 

2009年3月 7日 (土)

ローマな休日(その6:フォロ・ロマーノⅠ)

飯を食い終わり、フォロ・ロマーノにやってきた。

受付でローマ・パスなるものを購入する。このローマ・パスであるが、三日間のメトロと路線バスが乗り放題になるだけでなく、主要な遺跡や博物館にもフリーパスな便利な代物なのである。我々は今回の旅で、これでもかというほど使いこなした。ローマに訪れた際には、是非購入をお奨めする。

フォロとは公共広場のことである。このフォロ・ロマーノとは、紀元前6世紀から293年にかけてローマの政治経済の中心地であったところである。西ゴート族侵入後は、廃墟となり、完全に忘れ去られ、土砂に埋もれていたが、19世紀ころから本格的に発掘されている。

早速現れたのは、アントニヌス・ピウスとファウスティナ神殿である。

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アントニヌス・ピウス帝が皇后ファウスティナに捧げるために建てた神殿で、自身も葬られている。アントニヌス・ピウスと言えば、五賢帝の四人目で、堅実な政治で知られた皇帝である。あまりにも堅実すぎて、在位中、ほとんど事件らしいこともなかった。そのため、「歴史のない時代」と言われているらしい。歴史ファンからすれば、全く面白くない皇帝ですな。

続いて、バシリカ・アエミリアである。

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マルクス・アエミリウス・レピドゥスが建てたバシリカである。カトリックでは、一般の教会より上位の教会をバシリカというが、この場合のバシリカは、元々の意味である古代ローマの裁判所や取引所として使われる集会施設のことである。

レピドゥスと言えば、第二回三頭政治の一角である。才能豊かなオクタヴィアヌスと実力者アントニウスの間で権力を失うことを恐れたレピドゥスは、三頭政治を持ちかけ、受け入れられたのだ。

レピドゥスは実力者二人の緩衝材的な役割で、なんとか安定した権力を持ったが、アントニウスがオクタヴィアヌスに負けたため、オクタヴィアヌスに引退させられるのだ。能のない人間が欲を持つとこういうことになるのかね?

┐( ̄ヘ ̄)┌ フゥゥ~

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すぐ右がバシリカ・アエミリア、右奥がクリア・ユリア(元老院議事堂)、正面がセウェルスの凱旋門、左奥がサトゥルヌス神殿である。

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元老院議事堂(クリア・ユリア)である。最初の議事堂は、紀元前6世紀に建設されたようだ。その後、焼失したものをカエサルが起工し、アウグストゥスが完成させた。現在の煉瓦造りのものは、ディオクレティアヌスが再建したものを、さらに1930年代に再建したものだ。

ところで、元老院と言うと、なんか汚い政治のイメージを持ってしまうのは私だけだろうか。。。もしくは、スターウォーズとか・・・

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セプティミウス・セウェルスの凱旋門である。

パルティア遠征の戦争記念として造られた門である。セウェルスは、カラカラの親父であり、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの息子であるコンモドゥスが暗殺された後、どさくさにまぎれて、パンノニア総督から皇帝に成り上がった男である。

ところで、コンモドゥスであるが、「ローマ帝国史上最悪の皇帝」と言われる。あのネロより最悪なのだ。ぶっちゃけると、映画「グラディエーター」ででてきたあの悪い皇帝のモデルである。

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クーリアの向こうにある教会は、街中の教会である。フォロ・ロマーノとは関係ない。

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奥に見える柱は、サトゥルヌス神殿の入り口である。この神殿は、奴隷階級の神サトゥルヌスを祀った神殿で、国家宝物庫としても機能したらしい。

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バシリカ・ユリアである。カエサル起工、アウグストゥス完成のバシリカである。現在では、煉瓦造りの柱の台座くらいしか残っていない。

なんか遺跡酔いしてきた。

なんかよく分からんので、JINと二人、これなんやろ?と言いながら、ガイド本と睨めっこである。

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旅中、この鳥はなんどか見たな。。。

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次回へ続く。         

2009年3月 5日 (木)

ローマな休日(その5:ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)

ところで、JIN君、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世って何やったっけ

こんな疑問を投げかけたのは、5年ほど前だったろうか・・・

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世と言えば、サルデーニャ王国最後の国王で、カヴールを首相にし、リソルジメントを推進し、イタリア統一戦争の末、遂には、イタリアの統一を果たした初代イタリア王国国王である。

ガリバルディに占領地を献上してもらったり、個人的に棚ボタ的な印象のある国王であったため、高校世界史で習って以来、その甘美な響きのみで、どこの何をした王様がすっかり忘れていたのだ。

ま、結局、当時はJINも忘れていたため、ググったわけだが、そのおかげか、今ではすっかり私の中で有名人である。

前置きはここまでとする。

フォロ群がたくさんあるフォリ・インペリアリ通りを北西に進むと、ヴェネチア広場に出る。そのヴェネチア広場には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂がある。

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この記念堂であるが、地元では大層評判が悪いらしく、「入れ歯」とか言われているらしい。結構目立つので、ローマの高いところに上ると、結構遠くからでも目撃される。

旅中、何回か、遠くから記念堂を見つけて、

「あっ!入れ歯や!」

と罵った。

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貝殻を頭に被ったおっさんが悩殺セクシーである。

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フォリ・インペリアリ通り沿いに先ほどのフォロ群が見える。

朝飯抜きでここまできた。そろそろお腹もすいてきたので、飯を食いにいく。

途中、フォロ・ロマーノが見えた。

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インペリアリ通りの反対側は、フォロ・アウグスト等である。

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結局、フォロ・ネルヴァ近くのバールでパニーニとカプチーノを堪能した。

バールはバーのことであるが、日本で言うバーとはイメージが違う。日本で言うところの喫茶店がバールである。このことについては、また詳しく紹介する。

次回は、フォロ・ロマーノに潜入する。 

   

2009年3月 4日 (水)

ローマな休日(その4:フォロ・ネルヴァ、フォロ・アウグスト、トライアーノの市場、フォロ・トライアーノ)

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂からひたすら歩く。街も明るくなってきた。

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駐車場の標識だろうが、Pの下の「父」の字が気になる。

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ガソリンスタンドのようですな。。。

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コロッセオの周辺にやってきた。

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右手前がフォロ・ロマーノで、奥に微かに見えるのが、コロッセオである。

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フォロ・ロマーノの北側にも遺跡群が存在する。写真は、フォロ・ネルヴァと思われる。

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さきほどの壁の向こう側はこのようになっている。

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この柱は神殿の円柱らしい。

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フォロ・ネルヴァからフォロ・アウグストが見える。

フォロ・アウグストは、アウグストゥスがカエサルの復讐戦(フィリッピの戦い)に勝利したことを記念に、紀元前2世紀に完成した。ここにある円柱等は、復讐の神マルスに捧げる神殿の一部らしい。

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トライアーノの市場である。

もともとはトラヤヌス帝が市民への穀物配給所として建立したらしいが、その後、ローマの市場として隆盛を極めたようだ。

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左手の円柱群がフォロ・トライアーノである。トラヤヌス帝がダキアで大勝利を収めたことを記念して113年に造られたフォロである。

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こちらはトラヤヌスの記念柱である。高さはなんと30メートルらしい。

ところで、さっきからフォロという言葉が出ているが、フォロとは、公共広場のことである。フォロの後に造った皇帝の名がついていることが多いようだ。フォロ・アウグストはアウグストゥスで、フォロ・トライアーノはトラヤヌス帝、フォロ・ネルヴァはネルヴァ帝。。。後ほど紹介するフォロ・ロマーノは、皇帝の名前がついていない。こちらは、ローマで一番最初のフォロのようだ。

JINと二人、フォロ群を見て、よーこんなもん残っとるなあと感心する。。。

それにしても、ガイド本で想像していたよりもずっとミニマムだった。もっと大きいと思っていたのにねぇ。。。      

      

2009年3月 3日 (火)

ローマな休日(その3:サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)

バルベリーニ広場を後にし、我々はテルミニ駅方向に向けて歩く。

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街角に何気なく噴水がある。それも結構古そうだ。

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まだ暗い街を歩く。後ろから何やら怪しげな人物がついてくる。やや恐怖を覚える。気にしないふりをするが、ずっとついてくる。ほんの少し道に迷い、立ち止まっていると、人物が近づいてきた。ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ

・・・そして、通りすぎた。( ゚д゚)ポカーン

・・・警官でした。

危険人物かと思いきや、最も安全な人物でした。。。

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結局、(JIN体内GPSのおかげか?)ほとんど迷わず、テルミニ駅からも近い、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂にやってきた。

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大聖堂の前には、オベリスクが立っている。オベリスクとは、古代エジプトの神殿に立っていた記念碑のことである。ローマには、オベリスクが数多く建っている。要するに、ローマ帝国時代に戦利品として、ぱくってきたものなのである。今では、教会の目印となっているものが多いようだ。

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オベリスクのてっぺんに何やら御仁が立っておられるが、暗くてよくわからん。

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サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、「聖なるマリアに捧げられた聖堂」という意味で、ローマの四大バシリカの一つである。バシリカとは、カトリックにおいて、教皇が特権を付した教会の上にたつ教会のことである。

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そびえ立つ鐘楼は、1377年に建てられたもので、ローマで最も高い鐘楼である。

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いつまでも外観を見ていても仕方ないので、中に入る。あいにく、内部は撮影禁止だった。写真が撮れないことが残念で仕方ないほど、素晴らしいものであった。内陣の素晴らしい装飾やモザイクの数々は、言葉では表現できないので、興味のある人は、実際にローマに行ってください。

特筆すべきは、まさにミサを行っていたこと。早朝で、教会内は大変暗い中、厳かに行われる儀式は大変美しい。JINと二人、感動してしまった。

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中は撮影禁止なので、外から撮ってみた。

外に出ると、かなり明るくなってきた。

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明るくなってもオベリスクの上の御仁はよく分からなかった。

明るい中のサンタ・マリア・マッジョーレをどうぞ!

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ところで、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、「真夏のエスクイリーノの丘で雪が降る場所に教会を建てよ。」という聖母マリアのお告げがあり、本当に降ったという奇跡の土地に立っている。

また、現在の聖堂は、聖母崇拝が公認されたエフェソス宗教会議(431年)の直後に建立され、その後、修復と増改築を繰りかえし、現在に至っている。古来より、聖母マリアを崇敬する聖堂であり、カトリックの中でも非常に重要視されている教会なのである。

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂を後にした。

   

       

   

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