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    2007年2月。とにかくカルチャーショックの連続だった。

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2009年1月

2009年1月31日 (土)

京都迷宮入りⅥ(その5:滝口寺)

祇王寺の隣?には、滝口寺がある。

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滝口寺は、浄土宗の寺で、山号は、小倉山である。そう小倉百人一首の小倉山である。藤原定家は、小倉山の麓の時雨亭で、和歌を選んだそうな・・・。

ところで、滝口寺は、元の名を往生院三宝寺といい、祇王寺と同様、廃寺となっていたものを、明治時代に再建したものだ。後に記す滝口入道にちなんで、滝口寺と名づけられた。

それにしても閑散としている。

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入り口にすぐ近くには、新田義貞の首塚がある。北陸で敗死した後、三条川原でさらし首になっていたのを、義貞妻が盗み、小倉山に葬ったとか・・・

延々と山道を歩かされる。

しばらくして、本堂が見えてきた。

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う~む、寺に見えませんな。なんか古民家みたい・・・

本堂に上がり、外を見てみた。

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今の時期は、あまり景色がよくないらしい。

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滝口入道(右)と横笛(左)の木像である。

滝口入道は、元は、斎藤滝口時頼といい、平重盛の侍であった。ある日、花見で女官横笛の舞を見て、一目惚れする。それで恋文を送ったりするようになるが、親父がそれを知り、

「色を知る年か!」

と、一喝した。

で、いろいろ自問自答の末、時頼は、出家してしまう。。。

時頼の出家を聞いた横笛が、悲観にくれ、時頼を探し、往生院までやってくる。

横笛は滝口入道に居留守を使われるわけだが、路傍の石に歌を書き、去ったと言う。

横笛はその後、出家し、早死に・・・

滝口入道は、出世したという・・・

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横笛の歌石があるというので、探すと、ありました。

この記念碑がそうかと思うと、その右奥にあるのが、そうらしいですな。画像が半分切れている。失敗だった。      

2009年1月29日 (木)

京都迷宮入りⅥ(その4:祇王寺)

祇王寺にやってきた。

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祇王寺は、真言宗大覚寺派の尼寺である。山号を高松山、院号を往生院という。元々は、浄土宗のお寺であったようだが、明治初期に廃寺となった後、真言宗のお寺として、復興したようだ。

料金所で、二人のご夫人にコーヒーの試供品をもらう。なぜかは後で解説する。

ご婦人:こんなおばさんにもらっても嬉しくないやろ?

JIN:いえ、貴方だからいいのですよ・・・。アナタガチュキダカラ~↑

かなり演出しております。

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早速仏間が見える。

このお寺は、ずいぶんこじんまりしており、お寺っぽくない。

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苔むした庭が雅である。

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ところで、私もよく知らないのだが、平家物語に祇王という白拍子がでてくる。白拍子とは、舞を踊る遊女のことである。祇王は、平清盛の寵愛を受けた。当時の白拍子は、遊女と言えど、平家や源氏など、権力者の寵愛を受けることが多く、なかなかインテリであったようだ。

で、祇王だが、平清盛が別に仏御前という白拍子に熱をあげてしまい、屋敷を追い出されるわ、恋敵の仏御前の暇つぶしに踊れと言われるわ、散々な扱いを受ける。あまりのことに母と妹とともに、この祇王寺(かつての往生院)で尼となったのだ。

それだけではない。一部始終を見ていた仏御前は、あまりの祇王の悲惨ぶりに同情し、一緒に仏門に入ることになる。

この話だけを聞くと、清盛って、最低ですな。

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仏間の前で猫が水を飲んでいた。ほのぼしてますな。

おやおや、JINさん。いつもの猫可愛がりですか?

仏間は撮影禁止なので、画像はない。一部のブログでおもいっきり載ってるのを見かけたが、だめですからっ!( ̄▽ ̄)

仏間には、本尊の大日如来のほか、清盛、祇王、祇女(妹)、母刀自、仏御前の木造が祀られている。

その奥の控の間には、吉野窓という有名な窓がある。実は、某コーヒーのCMで使われたことがある。

日本人はうるさい!うるさい!うるさい!

の、ネ○レの香○焙○である。

そう、料金所でもらった試供品はこれだったのである。

ちなみに、窓越しに見る景色は、さほど雅ではなかった。だって、普通にブッシュでっせ!映像技術って、すごいねヽ(´▽`)/

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外を出れば、吉野窓の前はえらいことになっていた。┐(´д`)┌ヤレヤレ

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右が清盛供養塔で、左が祇王、祇女、母刀自の墓である。

こまい寺の割には、なかなか面白かった。吉野窓の外とか・・・         

2009年1月28日 (水)

京都迷宮入りⅥ(その3:化野念仏寺)

化野念仏寺にやってきた。

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化野は「あだしの」と読む。普通は読めない。私も小学生の頃は、「ばけの」だと思っていた。

山号は、華西山で、浄土宗のお寺である。化野念仏寺のメインはこれだ!

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この夥しい石仏・石塔群である。

念仏寺の起源は、スーパースター弘法大師が、五智山如来寺を建立し、野ざらしになっていた遺骸を埋葬したことに始まる。なぜ、野ざらしになっていたかと言えば、化野は、平安京時代、風葬の地とされていたからである。

如来寺は、その後、法然上人の念仏道場となり、華西山東漸院念仏寺と改称し、浄土宗に帰属するようになる。

上の画像のメインの石塔群は、明治時代、化野に散在していた無縁仏を一箇所に集めたものである。 西院の川原という。

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メインの西院の河原以外にも、無縁仏が陳列されている。

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西院の川原を別角度から・・・

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これは、ストゥーパのように見える。納骨堂のようだ。

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お寺なのに、鳥居があるし、形が面白いと思ったが、そもそもインドでは、トラナという門を寺院に作るのは当たり前で、むしろトラナが鳥居の元祖という説もあるようだ。

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竹林が現れた。

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嵯峨野って感じですなあ~(◎´∀`)ノ

きょーと、さがのに吹く風はぁ~

それは、○ぜ○らや!

と、JINに突っ込まれる。

そういや事件起こしましたね∑(゚∇゚|||)

さらに、JINと竹林の七賢について、語り合った。

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竹林を抜けると六角形の石塔が現れた。各面に地蔵菩薩が彫られており、地獄道や人間道と六道がそれぞれ刻まれている。この六体の地蔵に水をかけながら、拝み、六道の苦しみから救っていただこうという趣旨らしい。

早速、水をかける。

ぶちっ!

柄杓の頭が・・・∑(゚∇゚|||)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

JIN:おっ!?柄杓の頭が水没しとおで・・・

私:うん。腐っとったみたい(*≧m≦*)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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竹林の道を再び戻ってきた。

西院の川原の前にある、延命地蔵にて、延命を図る。

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化野念仏寺といえば、夏にある千灯供養が有名である。西院の川原一面に蝋燭が灯るのである。実に幻想的らしい。私は見たことがない。見たことのあるJINは自慢げに語った。

それにしても、中学以来の念仏寺であったが、記憶していたより、小さかった。しかしながら、やはり、インパクトのある光景であった。    

   

2009年1月27日 (火)

京都迷宮入りⅥ(その2:大覚寺)

大覚寺にやってきた。

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大覚寺の正式名称は、「旧嵯峨御所大覚寺門跡」といい、真言宗大覚寺派の本山である。門跡というのは、皇族が住職を勤めた寺院のことである。

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大門をくぐる。着物のいかしたご夫婦?が雅である。

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式台玄関から奥の宸殿等に行ける。

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奥に見える建物が宸殿である。宸殿とは、後水尾天皇により下賜された寝殿造りの建物で、狩野山楽などの襖絵がある。

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早速拝観する。

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宸殿の廊下はうぐいす張りになっているらしい。そういや、キュッキュ鳴っていたような・・・。

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御影堂である。

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御影堂からは勅使門が見える。

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御影堂の裏手には、勅封心経殿というものがある。嵯峨天皇など六天皇の写経が収められているらしい。

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さきほどの宸殿が見える。

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大沢池にでた。

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嵯峨天皇の離宮である嵯峨院の庭池で、中国の「洞庭湖」を模しているとのことである。それにしてもでっかい庭池を造ったものだ。周囲1キロメートルとのことである。

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☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;;:*☆*:;;;;;:*☆*:;;;;;:*

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とにかく凄い寺なのだが、あまりにも正統派過ぎて、ネタがなかった。

    

         

2009年1月26日 (月)

京都迷宮入りⅥ(その1:清涼寺)

平成20年12月28日。

年末にJINと嵐山に行ってきた。嵐山は、私にとって、思い出の土地である。

私が幼少の頃、年に一回くらい、嵐山に行き、湯豆腐を食うというのが、我が家の贅沢であったからだ。

この話を福岡の友達に言うと、さっぱり理解されなかった。関西では、湯豆腐をこよなく愛している人が多い。また、京都で湯豆腐を食うと、結構高いので、高級料理のイメージがある。福岡の人はそういうイメージがないようだ。

私などは、美味いポン酢に出会うと、

「これ、湯豆腐に合いそうやね!」

と、つぶやいてしまうのだが・・・。

まあ、ここらで、嵐山編をスタートすることにする。

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

JR芦屋で新快速に乗る。車両に乗り込むと、JINがいた。JR九州の特急より速いかもしれない新快速にかかれば、京都などはあっという間だ。京都から嵯峨野線に乗り換え、嵯峨嵐山で下車する。

第一目的地は、清涼寺である。

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清涼寺は、嵯峨釈迦堂と言ったほうが名が知れているようだ。現にJINは、そういや釈迦堂って、清涼寺って名前やったっけ?と呟いていた。

山号を五台山という。浄土宗のお寺で、本尊は当然釈迦如来である。

なかなか立派な仁王門をくぐる。

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左手に多宝塔がある。江戸時代(1700年)のものらしい。

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本堂である。本尊の釈迦如来が祀られているのだが、この釈迦如来像が仏像マニア界には非常に有名なのである。国宝というのもあるが、実は、体内に五臓六腑を持っておられるのだ。

本堂に入ると、運よく、ご本尊の姿を拝むことができた。なかなかソース顔の仏様である。ちなみに、JINはご朱印コレクターの本領を発揮し、しっかりゲットしていた。

ところで、この釈迦如来であるが、インドから中国経由で伝わったものらしい。中国で絹製の五臓六腑が体内に封入されたらしい。この五臓六腑は、昭和28年に発見されている。

ご本尊を拝見させていただいているとき、写真撮影禁止のはずの堂内でバシバシ写真を撮るおっさんがいた。思わず、ぼろくそに言いたくなったが、仏前だ。やめた。

本堂の裏手に廻る。

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弁天堂である。江戸時代後期のものらしい。

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阿弥陀堂である。光源氏のモデルと言われる源融公が建てた棲霞観(寺)の跡である。消失しているので、現在の建物は、1863年の再建である。何気なく、立寄ったところが、なかなかの名所だったので、テンションが上がった。

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源融公の墓である。

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一切経蔵である。なんか奥でぐるぐる回っている。

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輪蔵と呼ばれるものに、一切経が収められており、これを回すと、一切経を読んだことになるらしい。ちょうど、参拝客が私たちの前にいて、回している最中だった。

スピーカーから流れるお経がナイスである。

私たちの順番になった。

う~りゃ~。

おう、廻る。廻る。

・・・・・

なんか超人墓場とか、北斗の拳でこんなシーンあったような・・・

2009年1月23日 (金)

博多を歩こう!Ⅳ(その3:崇福寺)

崇福寺にやってきた。山号を横岳山といい、臨済宗大徳寺派のお寺である。

1272年開山、その後、戦で燃えて、黒田長政により、1600年に再建された。それ以来、黒田家の菩提寺なのである。

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この山門は元福岡城本丸の表御門を大正時代に陸軍から払い下げたものらしい。

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山門をくぐって、左手に旭地蔵堂がある。

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なかなかいい雰囲気である。

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ここ崇福寺は、旭地蔵に対する信仰が盛んで、どっちかというとこちらがメインのような・・・。

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壁には、なんとも昭和な絵馬が架かっている。珍寺大道場によると、このように、様々な年代の人物像が描かれた絵馬は珍しいとのこと・・・。

地蔵堂を出る。

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こんなふうに仏頭を置かれると、気になるよな・・・

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これは福岡市最古の唐門らしい。

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庫裡である。庫裡とは、僧侶の住居のことである。

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左手に見えるのが本堂と思われる。

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境内の裏手には、黒田家の墓所があるが、あいにく、門があり、これ以上行けない。

仕方ないので、格子から物ほしそうに眺める。

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うぉぉお・・・

もちっと見るぞい!

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どれが、如水なのか長政なのか、さっぱり分からん。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

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帰りに山門前の売店で絵馬が売っていた。ちょっと買おうか迷ってしまった。

おしまい。 

   

      

2009年1月22日 (木)

博多を歩こう!Ⅳ(その2:東公園)

福岡市博多区にある福岡県庁の南側には、東公園という市民憩い?の公園がある。

東公園には、こんなものがある。。。

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亀山上皇の銅像である。

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台座には、筥崎宮にもあった敵國降伏の字が・・・。

亀山上皇は、元寇のときに、積極的に伊勢神宮で戦勝祈願をしたらしい。でも市民はそんなこと知らないのでは・・・?

日露戦争中の1904年に除幕式があったらしい。なかなか古い銅像である。

また、東公園内には、別にある像がある。

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日蓮上人像である。

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日蓮上人といえば、立正安国論で元寇を予言したとか、しなかったとか・・・。

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この上人像があるのは、日蓮上人銅像護持教会(身延山別院)の敷地である。なんでも亀山上皇にはお供が必要と、お上を口説き落としたらしい。意味わからん。。。ということで、日蓮上人像も1904年製である。

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台座には、日蓮上人伝説のレリーフが飾られている。

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日蓮上人がやたらてかっているのは、皆が手で撫で回すからである。ようするに手油でコーティングされているわけだ。信仰の力は凄いものだ。。。

ところで、今回、東公園を紹介したのは、別に亀山上皇や日蓮上人に深い思い入れがあるわけではない。東公園は、ちょうど、 筥崎宮とこれから行く崇福寺の途中であったからだ。

次回は、崇福寺。 

   

2009年1月21日 (水)

博多を歩こう!Ⅳ(その1:筥崎宮)

平成20年12月23日。

福岡県には、四つの大社がある。宗像大社、香椎宮(以上、官幣大社)、高良大社(国幣大社)と、残る一つが筥崎宮である。

ということで、筥崎宮にやってきた。

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明日はクリスマスイヴというのに、私は寺社仏閣ライフを楽しんでいる。

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さて、ここの楼門は非常に有名である。日本三楼門の一つというだけではない。

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この額である。

この「敵國降伏」という文言は、醍醐天皇だか亀山上皇だかが書いたものとされている。信じられないかもしれないが、こうやって書けば、戦に勝つという考え方が存在したのだ。まあ、言霊信仰というやつである。蒙古襲来のときの神風も筥崎宮のご利益とか・・・。

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楼門の先には、拝殿、本殿とあるのだが、一般の参拝客は、この楼門で塞き止められる。仕方ないので、楼門の下で参拝する。

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さて、筥崎宮は、旧官幣大社というだけではなく、筑前国一ノ宮でもある。もっともこれは、博多の住吉神社も一ノ宮に指定されており、ややこしい。

ご祭神は、応神天皇であり、八幡社の一つである。ちなみに宇佐神宮、岩清水八幡と並んで、日本三大八幡の一つらしい。

筥崎宮の名の由来は、神宮皇后が宇美町で応神天皇を産んだとき、胎盤を筥に入れて、この地に埋めたという伝説に基づく。筥というのは円筒形の入れ物のことらしい。

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西の末社である。

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こっちが東の末社である。

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さて、帰ろうかと思っていると、「湧出石」なるものを見つけた。石に触れると、運が湧き出るらしい。

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このちょっと顔を出している石ころですかっ  !!(゚ロ゚屮)屮

国に一大事があるとき、地上にでっかく出てくるらしい。ということは、このままのほうがいいという訳ですな( ̄▽ ̄) 

筥崎宮を後にした。      

2009年1月20日 (火)

2009年初夢シリーズ(その2:生田神社)

平成21年1月2日。今日は、ふじゅんの会の新年会。昨日も会ったJINに加え、じゅんちゃんとまきと三宮で合流した。じゅんちゃんとまきとは、昨年の長野旅行以来だ。

時間もあるので、詣でることにした。

♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:

今回の詣では、生田神社である。生田神社は、その昔、朝廷から神地神戸を賜り、現在の中央区一体が社領であったらしい。この神地神戸の神戸(かんべ)から神戸(こうべ)となったという。つまり、神戸という地名の由来となった神社なのである。

そして、生田神社は、神戸市民から最も愛されている神社と言える。ちなみに正月三が日参拝者数全国ランキング(2009)が発表された。

  1. 明治神宮(東京都)
  2. 成田山新勝寺(千葉県)
  3. 川崎大師平間寺(神奈川県)
  4. 伏見稲荷大社(京都府)
  5. 鶴岡八幡宮(神奈川県)
  6. 浅草寺(東京都)
  7. 住吉大社(大阪府)
  8. 熱田神宮(愛知県)・・・7位と同数
  9. 大宮氷川神社(埼玉県)
  10. 大宰府天満宮(福岡県)
  11. 生田神社(兵庫県)
  12. 宮地嶽神社(福岡県)
  13. 豊川閣妙厳寺(愛知県)
  14. 八坂神社(京都府)

ご覧の通り、大宰府の下、11位である。

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ご覧の通りである。2日だが、この多さだ。

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二年前の初詣は、某古着屋と三社参り(生田、長田、湊川)をしたが、ここから湊川神社に行く途中で、古着屋と年明け早々カレー饂飩を食したものだ。

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楼門が見えてきた。

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通路の両サイドで巫女さんがおみくじ対応をしている。そういや、昔、白石先生と十日恵比須で今宮恵比須の福娘を見に行ったなあ・・・。めっさレベル高かった(*´д`*)ハァハァ

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中央のカードマンの親父がやたらめったポーズを決めていた。

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ほにゃらば、参拝。

そういや、生田神社って、藤原紀香と陣内某が結婚式挙げたような・・・

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さて、生田神社は、旧官幣中社である。また、ご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)である。稚日女尊は、幼い神様であり、天照大神の幼名とも言われている。神宮皇后が三韓征伐の帰途、神戸港で船が進まなくなるという怪異に遭遇した。すると、稚日女尊が現れ、生田の森に祀ってぇ~なと言ったそうな・・・。これが、生田神社の縁起である。

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八幡神社と住吉神社がある。昨日、住吉大社に行ったばかりなので、少しテンションが上がった。

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数ある摂社・末社の中から蛭子神社をコーディネートさせていただきました。

ところで、気になることがある。神戸市民(私は元神戸市民ですが・・・)は、生田神社は女の神様だから恋愛祈願で行くと、嫉妬されて、ダメと聞かされてきた。それが、藤原某が結婚式を挙げ、不思議と思っていると、どうやら、最近、恋愛成就の神様で売っているらしい(´-д-`)

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

この後、ふじゅんの会の宴会が開催され、楽しい一日が過ぎていった。

正月休みは、あっという間に過ぎ、行きと違い、どこによることもなく、一っ飛びで帰福する羽目になった。

最後に、関門橋を一枚。

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2009年1月18日 (日)

2009年初夢シリーズ(その1:住吉大社)

平成21年1月1日。年が明けた。昨年は、地元神戸の長田神社須磨寺に初詣に行ったが、今年は、隣の大阪の住吉大社に決めた。

しかし、12月31日という日は、結構退屈な日である。我が家では、いつも騙されたと思いつつ格闘技を見る。格闘技を見終わると、紅白の結果だけを見る。そして、ここ数年、一番の楽しみは、「行く年、来る年」で今年は、どこの寺が選ばれるかということだ・・・。

昨年は、大宰府の観世音寺などが選ばれていた。観世音寺には、この間、ちょいと行ってきたので、いずれ報告する。ね、監督・・・。

話を戻そう。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

年を越して、しばらくすると、くっぺちゃんがJINを連れて、新型クッペカーに乗って、私を迎えに来た。

しかし、いつの間に車を買い替えたのやら・・・

高速をぶっ飛ばし、やって来たのはいいが、とてつもない車の数で、あちらこちらの道路が封鎖されている。さすがは、住吉大社である。ウィキ調べによると、2006年初詣参拝者数全国6位である。福岡県民に分かりやすく言うと、福岡県民がこよなく愛する大宰府天満宮は9位である。

もう無理かと諦めかけていると、JINの胸騒ぎに満ちた予感が発動した。結構離れているが、駐車場ありました。

で、くそ寒い中、ひたすら歩き、住吉大社にやってきた。

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人多っ!

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暗くて、よー、わからん。なんで、停まっているのかと思えば、前方にある太鼓橋を渡るのに、人数制限をしている模様だ。警察官も大変である。まー、十日恵比須の西宮神社よりましか・・・。

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やっと太鼓橋を渡れるようだ。

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本当ならば、一つ一つ丁寧に私の能書きが入るのだが、訳がわからん。とにかく混乱している。人多すぎるねん!

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住吉大社は、旧官幣大社、摂津国一宮という名門の神社である。ご祭神は、住吉三神という三柱のむっさい?海の男の神様である。宗像が三柱の女神であることと対照的で面白い。

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ご本殿は、第一本宮から第四本宮まであり、国宝となっている。造りは、住吉造と呼ばれている。

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侍者社(おもとしゃ)という末社があった。縁結びのご利益があるそうなので、心持真剣に参りさせていただいた。

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太鼓橋を撮ってみたが、暗くてよく分からない。

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おう!ろくろ首が~ヒィー(((゚Д゚)))ガタガタ

ちょっと興味があったが、くっぺちゃんとJINは問答無用で立ち去った。

ヤッテラレンワ…ヽ(○´3`)ノ フッ

このように、人地獄により、落ち着いてみるという雰囲気ではなかった。

また、昼間の普通のときにじっくり見ることを決意し、住吉大社を去った。

帰り道でくっぺちゃんに大変なことがあった。。。公園の柵に足をとられ、私の視界から消えた。新年早々大当たりですな。。。

ちなみに私は、大吉でしたけどね。

2009年1月13日 (火)

中国大返し(その6:耕三寺後編)

千仏洞地獄峡から地上に出た。シャバの光が眩しいぜ・・・

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救世観音大尊像とある。その名のとおり、法隆寺夢殿の救世観音像をぱくったものだ。本物は、こんなにでかくない。これは15メートルあるらしい。

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茶祖堂とある。

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中を覘くと、なんか茶人が鎮座されていた。使い古した茶葉を箱に入れると、法要をしてくれるらしい。

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多宝塔は石山寺のぱくり。

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この階段の向こうに、未来心の丘とやらがあるらしい。ちなみにバリアフリーも考えられているのか、エレベーターも設備されている。

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おう!階段を上ると、そこは一面、大理石だった。。。

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なんじゃこりゃ?

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天猫らしい。

「仏教護法の十二天より「月天」を望む猫・・・イタリアのお月さまもいっしょかな」

誰か、この電波語を解読してくだちい。

イタリアというのは、この大理石がイタリアから輸入されたからどろうけど・・・

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喫茶店も完備されている。

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なんじゃ、あの合掌は?

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光明の塔とある。

「仏教護法十二天より 「日天 」が放つ光(希望)の塔・・・ 西に沈む太陽に合掌」

やっぱ、合掌なんや!?!!(゚ロ゚屮)屮

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風光明媚な瀬戸内の景色と大理石の珍オブジェのコンストラクトがシュールである。

未来心の丘を後にし、戻ってきた。

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なかなか面白いつくりですな。上にある建物はさっきの茶祖堂である。

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銀龍閣である。当然、銀閣のぱくりである。

http://markun-angya.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_a02b.html

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お母様のお部屋?

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こいつが書院かと思いきや、書庫のようだ。

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これが、潮聲閣(書院)である。耕三和尚がお母様のために建てたものである。

この前でスタンプラリーのスタンプを押していると、信者の方が、どうぞ中を見学してくださいと声をかけてくれた。では、見学させていただく。

玄関では、明日行うという餅つきの用意をしていた。

ご婦人の後に着いて、台所やら浴室やら、豪華な客間などを見ていく。そして、最後に・・・

「こちらがお母様のお部屋です!」

思わず顔がにやけそうになるのを我慢する。

なんか売れないマジシャンとワラビ餅好きの大学教授のコンビの推理ドラマでこんなん見たような・・・。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

書院をでて、とある水槽を覗くと、天然記念物のオオサンショウウオがいた。

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ちゃんと許可得ているのかな?許可を得ず、所持すると文化財保護法でぱくられますよ。

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鐘を打ち鳴らし、耕三寺をでた。

しかし、これだけではない。

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耕三寺博物館である。耕三和尚がかき集めた文化財が展示されている。

ちなみに、島にまつわる文化財は一つもない。ここで、スタンプラリーを終了し、絵葉書をもらった。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

耕三寺を後にし、もう日没コールドである。

一路、神戸の実家に向う。因島で実家に電話をする。

「ごめん、今因島。少し遅くなるわ。」

呆れられた。

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ちなみに耕三寺でもらったお茶は、なんかえげつない味がした。

おしまい。      

2009年1月12日 (月)

中国大返し(その5:耕三寺中編)

岩場に洞穴が開いている。

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千仏洞地獄峡という。さっそく中に入る。

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早速、お地蔵さんご一行様である。

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壁には十六羅漢が埋め込まれている。

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おやおや、閻魔様のようですな。。。これから地獄が始まるようだ。

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壁に八大地獄のレリーフが飾られている。まずは、火車で地獄まで送迎してくれる。

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初級の等活地獄。殺されては、極卒のレイズをかけられ、等しく生き返らされるということから、等活地獄と言う。悲惨やね。

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黒縄地獄。黒縄とは、大工道具の墨糸のことらしい。墨糸とは、材木を切り出す時に、目印の線を引く道具だ。これで目印をつけて、極卒にばらばらにされるらしい。それにしても、ばらばらにするのに、別に目印付けんでもええんじゃないの?適当でいいやろうに・・・。

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衆合地獄。鉄の山が崩れて、つぶされる。また、剣の林の木の上に美人で誘惑するので行ってみると、美人は木の下にスーパーイリュージョン。この昇り降りを繰り返し、血みどろに・・・。いやっ、行かんでええやん!

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叫喚地獄。シンプルに釜で煮られたり。。。泣き叫びまっせ。

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大叫喚地獄。叫喚地獄よりでかい釜で煮られる。釜の大きさは関係あるのか?

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焦熱地獄。とにかく、めっさ熱くて、それまでの地獄の炎が雪のように冷たく感じるらしい。目口鼻とかに細かく分解されて、焼かれるらしい。そのまま焼かれるほうが、つらいやろ?それにしても、極卒さんは、重労働だ。火傷とかしたら、労災おりるんかな?

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大焦熱地獄。焦熱地獄のパワーアップ版ですな。

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最後は阿鼻地獄である。とても筆舌に尽くしがたい責め苦を受けるのだ。そもそも地獄の最下層なので、到着までに2,000年落ち続けるらしい。最悪である。

いやぁ、地獄には行きたいものですね。でも飲酒は叫喚地獄行きらしいですよ

アワ((゚゚дд゚゚ ))ワワ!!

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今度は、六道の勉強をさせてくれるらしい。まずは、地獄道。

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餓鬼道。

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畜生道。

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修羅道。

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人間道(生苦)。

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人間道(老苦)。

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人間道(病苦)。

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人間道(死苦)。

・・・人間道って、生まれること自体が苦しみなんですな。。。テンションが下がる。

(´・ω・`)ショボーン

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最後が天道である。一見、天道が一番良さそうだが、晩年は悲惨になるらしい。どっちみち、どこに転生しようが、苦しみがあるということで、唯一の救済は、輪廻からの解脱になる。がんばって、修行せぇということやね。

レリーフによるお勉強が済むと、今度は、再び彫刻群が現れた。

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すっかり、千仏洞地獄峡を堪能した。これだけでも1,200円の価値はあったか?

あぁ、勉強になった。地上に出た。

次回へ続く。 

2009年1月11日 (日)

中国大返し(その4:耕三寺前編)

大三島から生口島に渡ってきた。隣の島であるが、こちらは広島県である。

目的地は、耕三寺である。浄土真宗本願寺はのお寺で、山号は潮聲山である。実は、この寺、珍寺マニアの中では、非常に有名なお寺なのである。

駐車場に車を止めて、歩くと、やたら赤い門が見えてきた。

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期待に胸が膨らむ。

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なんて、山門であろうかっ!

とても日本のお寺ではない。香港か台湾みたいである。

拝観料を払う。

(・_・)エッ....?

今何と?

おばさん:1,200円になります。

・・・・・・・・・・・・

高っ!

これで、しょぼかったら、責任者呼んでこーいっ!の世界である。

高すぎる値段設定に少し、後ろめたいものがあるのか、ペットボトルのお茶をサービスでくれた。それと、スタンプラリーをすると、絵葉書がもらえるらしい。

では、早速見学である。

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早速、五重塔がそびえ立っている。モチーフは室生寺である。

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法宝蔵というらしい。戦争で消失した四天王寺の金堂をぱくったらしい。

中は、金持ちのコレクションを展示している。

金持ち。。。

耕三寺を開山した和尚、耕三寺耕三氏は、大阪で成功した実業家である。後年、おかんの菩提を弔うため、僧籍に身を移し、この寺を開山したのだ。そして、稼いだ金を惜しげもなく、使ったのだから、大層ブルジョアなお寺である。ちなみに、日本中の有名なお寺をぱくっている。

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こちらは、僧宝蔵で、茶道具を展示している。

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どっかで見たな。。。

http://markun-angya.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_e312.html

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どっかで見たな。。。

http://markun-angya.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_cbcf.html

それにしてもどえらく金がかかっている。

料金は少々高めであるが、「寺はテーマパーク」という私の持論に見事に合致した、素晴らしいお寺である。ここを参拝するお客は、当然、そういうものを期待しているのでしょうな。。。

耕三寺の全貌は、まだまだ序の口である。次回へ続く。

2009年1月10日 (土)

中国大返し(その3:大山祇神社)

山口県から広島県に入り、ひたすら車は走る。

尾道からしまなみ海道に乗り換える。目指す先は、大三島である。

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大山祇神社にやってきた。住所は、愛媛県今治市になる。

ご祭神は大山積神である。山の神、海の神、戦いの神として、大昔より朝廷や武士から尊崇を集めた神社なのである。特に源氏や平家がこぞって奉納したものだから、武具の保有率は凄まじい。また、国宝や重要文化財に指定された武具も多い。

平安時代には、朝廷から「日本総鎮守」の号を下賜されたほか、国幣大社、伊予一宮と凄まじい神社なのである。

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鳥居をくぐると、早速、右手に御桟敷殿とやらがある。

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立派な木だなあと思って、説明書きを見る。

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天然記念物じゃないですかっ!

日本最古の楠とな!能因法師雨乞いの楠とある。

樹齢は3,000年で、900年前に能因法師とやらが雨乞いをした楠らしい。

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雨乞いの楠の奥には、少し変わった建物がある。十七神社というらしい。その名のとおり十七柱の神を祀っている。

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拝殿に通ずる階段の手前に、またまた巨木発見!

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またまた天然記念物である。

乎知命御手植の楠とある。樹齢は2,600年らしい。

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伊藤博文が記念に植えた楠らしい。

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神門をくぐる。

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拝殿である。早速お参りする。

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本殿の裏手には、宝物館がある。ここで、奉納された武具などを見ることができるのだ。

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やたら楠の天然記念物が多いと思っていたら、大山祇神社にある楠群自体が天然記念物のようだ。

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ちょっとどきどきして、宝物館に向う。

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宝筐印塔がある。神仏習合の名残であろう。

宝物館で国宝の武具に酔いしれた。こんなとき、刀剣好きの監督なら鼻血ものだろう。

(*´д`*)ハァハァ

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

宝物館とは別に海事博物館というのもある。

昭和天皇の研究成果を集めたものらしい。鯨の生殖器やら、サメのホルマリン漬けやら、海藻標本やらはわかるが、鹿の剥製とか、鉱石って、海事かね?

次回は、しまなみの超弩級珍寺の話。

2009年1月 6日 (火)

中国大返し(その2:錦帯橋とその周辺後編)

岩国のシロヘビをご存知だろうか?

シロヘビとは、アオダイショウの白化(アルビノ)個体、要するに突然変異である。野生においては、シロヘビが誕生しても外敵に発見されやすい等、多くのハンデを持ち、繁殖することは非常に珍しい。しかし、その珍現象が、この岩国では、昔から起こってきたのだ。

1924年にシロヘビの生息地が天然記念物に指定されたが、1972年には、シロヘビそのものが指定されている。

さて、白蛇横山観覧所にやってきた。

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観覧室に入る。

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いきなりいた。ありがたや。白蛇は弁天様のお使いらしい。

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脱皮した皮やホルマリン漬けのシロヘビが陳列されている。

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虫ケースを覘くと、ベビーがいた。

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外に出ると、すぐ近くに吉香神社がある。

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あれは何だろう?

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猫君、ちょっとごめんよ。猫を脅かし、歩く。

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先ほどの川岸の建物である。錦雲閣というらしい。

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絵馬堂ということだが、ちょっと少なくないか!?

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吉香神社は、吉川家を祀る三社を統合して、明治に建立されたものらしい。こじんまりしているが、なかなか雰囲気のある神社だ。

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ま、とりあえず、お参りですな。

吉香神社を後にし、歩いていると、別の神社があった。

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褒忠社という。

再び歩く。

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白山比咩神社という。

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それまでの雰囲気はよかったのに、本殿は随分近代的だ。

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さて、戻りますか・・・

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腹が減ったので、昼食にする。

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岩国寿司とやら食す。

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錦帯橋を眺めながら食うと、乙ですなあ~。

それにしても岩国寿司はちらし寿司を思いくそ固めたみたいな感じである。見てくれの割には、十分ご飯が押し固められているので、ボリュームがあった。

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槍倒しの松という。江戸時代、大名行列で城下を通るとき、槍を倒して行進するのが慣わしだったそうだが、大きな藩の大名行列が小さな藩を通るとき槍を倒さないことが多かったらしい。岩国藩士はそれがむかついて、このような松を植えたのだ。この松をくぐるときは、槍を倒さなければ通れないからだ。これによって、岩国藩士は溜飲を下げたとか・・・。

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巌流ゆかりの柳とあるが、このあたりの柳がということで、この柳と言うわけではないようだ。それも吉川英治の「宮本武蔵」でこの辺りの柳と燕を相手に「燕返し」を編み出したらしい。フィクションかよ!

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アサシンのサーバントか?

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さて、ドライブに戻りますか・・・。次回は、とある島の話。

2009年1月 5日 (月)

中国大返し(その1:錦帯橋とその周辺前編)

平成20年12月27日。

神戸に帰郷するのに、いつもは新幹線を利用するのだが、燃油も安くなったので、マイカーで帰ることにした。もちろん真っ直ぐ神戸に帰ろうなどとは思わない。折角なので、山陽地方で気になるところをいくつか廻ることにした。

まずは第一弾錦帯橋である。

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山陽自動車を岩国で降り、しばらく走ると、目的地に着いた。

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恥ずかしながら、初めての錦帯橋である。錦帯橋とは、岩国市の錦川に架けられた5連アーチの木造橋である。

通行料を払い、早速渡る。

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テクテク歩く。というか、歩く以外、特にすることはない。

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岩国城が見える。

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初代岩国藩主吉川広家が岩国城を築城してから錦川に架かる橋は、何度も流失の憂き目にあった。錦帯橋は、三代目吉川広嘉が、よしっ!イッチョ流れない橋を作ってやろうと造ったものだ。中国の西湖にある「錦帯橋」をモデルにし、1673年に架橋された。

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ちなみに錦帯橋は、過去二度流失しており、現在のものは、1953年に再建されたものだ。

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そうこうしていると、向こう岸に着いた。折角なので、周辺を散策する。

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三代目吉川広嘉の像である。当然、見に行ったときは、誰やねん!この親父というノリである。

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えらく古そうな門構えやなあと眺めていると、やっぱり文化財だった。

「香川家長屋門」という。岩国藩家老香川家の表門で、岩国市で一番古い建築物だそうだ。

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嬉しそうな噴水広場を抜ける。

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旧目加田家住宅である。江戸中期18世紀ごろに建てられた中流武家屋敷である。

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二階建てであるが、表からは平屋にしか見えない。これは、殿様が通る際、見下さないようにする配慮だとか・・・。

ふと見ると、「錦帯橋を世界遺産に・・・」という名目で署名活動をしていた。錦帯橋が正直世界遺産レベルとは思えないが、世界にはとんでも世界遺産が存在するのも確かだ。

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さて、ある意味メイン?の白ヘビを見に行きますか・・・(○゚ε゚○)

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