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伝説の旅ベスト5

  • 第五位:第一次九州遠征(2号線の旅)
    1999年3月に国道2号線を使って、神戸から北九州まで旅をした伝説。帰りはフェリーで松山に上陸し、四国を横断して帰ってきた。
  • 第四位:ハワイのんびり旅行
    2005年12月。ホノルルマラソンに出走。人生を変えた旅。
  • 第三位:英国旅行
    飯は不味いが、とにかくお洒落な街と大英博物館、ストーンヘンジ、カンタベリー最高!
  • 第二位:中欧旅行
    ベルリン、プラハ、ブタペスト、ウィーン、ヴェネチア、アムステルダムと6カ国の都市を主に列車で巡った。飯が美味かった。
  • 第一位:北部インドの旅
    2007年2月。とにかくカルチャーショックの連続だった。

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2008年8月

2008年8月26日 (火)

日光・尾瀬の旅(その2:日光東照宮)

いきなりクライマックスだぜぇ~♪ へっへっへっ・・・

私は、東照宮の鳥居をみただけで、大興奮である。

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日光東照宮とは、あえて説明するまでもないだろうが、あえて説明しよう!

徳川家康を「東照大権現」として神格化して祀った神社である。正式名称は、「東照宮」であるが、他にもいくつかあるので、区別のため地方名を冠して呼ばれる。

ちなみにこの石鳥居は、黒田長政が奉納したそうだ。

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五重塔である。若狭国小浜藩主酒井忠勝により奉納された。その後、焼失したため、酒井忠進に再建された。立派である。

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三神庫である。この向かいには・・・、

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神厩舎である。そして・・・

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でたっ~「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の彫刻である。

あまりにも有名である。

ちなみに、須磨寺では、「見ざる、言わざる、聞かざる、怒らざる、見てござる」の五猿である。

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国宝の陽明門である。見事である。

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陽明門の左右の回廊(もちろん国宝)には、素晴らしい彫刻が掘られている。

それにしても、こんな山の中で、よくぞ、風化しないものだ。よほどメンテナンスをしっかりしているのであろう。。。東照宮を支える職人さんに、尊敬の念を抱く。。。

あまりの荘厳さに、私も、くっぺちゃんも、JINも完全に惚けてしまっている。まさに、全世界が、マッスルドッキングを初めて、見たときの衝撃に似ている。

ま、まさか、こんなことが物理的に可能なのか

しか~し!たくさんいる観光客とは、明らかに異質な行動をとる者が、約一名。

ぎーさんよ、何故灯篭を必死に見ておるのだ?

ぎーさんは、灯篭の寄贈者を必死に見ていたらしい。こんな彼の奇行のおかげで、田沼意次などビッグネームを確認できた。

でも、ぎーさん、せっかくの建築や彫刻は見ないのかい?

本社を見学した後、次回は、いよいよ、奥宮に突入する。

2008年8月24日 (日)

日光・尾瀬の旅(その1:輪王寺)

平成18年9月1日早朝。

私一人神戸空港のロビーに待機していた。

・・・・・・、遅い・・・

もうすぐチェックイン終わるって、放送しとるやないかっ!

いつもどおりいらいしていると、ぎーさん、くっぺちゃん、JINの3人がやってきた。まったくいつもどおりのぎりぎりである。なんとか、7時5分発羽田行きの便に乗れた。

8時20分に羽田着。そのまま浅草まででる。今回の旅は、表題のとおり、1日目に日光を観光し、2日目に尾瀬をハイキングするという、いつもどおりの肉体的・時間的に過酷な旅である。今回の旅では、当初O氏も参戦する予定であったが、直前でどたきゃんしたため、結局いつもの四人組になった。。。

浅草のスタバで朝食を購入し、東部電鉄で一路日光へ!

11時48分、下今市に着。ここでレンタカーを借りる。レンタカー屋の兄ちゃんの訛りにしばし感動。。。

レンタカーを走らし、いよいよ東照宮エリアへ。。。

・・・・・・・・・・・

最初に輪王寺を見学する。

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日光東照宮を含む日光山は大変複雑な構造をしている。といっても、これは神仏分離のためで、神仏習合時代には、さほど不思議でもなんでもなかった。要するに、日光山には、お寺と神社が散在しているのである。ちなみに神仏分離以降は、東照宮と二荒山神社、それにここ輪王寺で二社一寺と呼ばれている。また、日光山の寺院建築物は、この輪王寺の施設である。

早速、輪王寺に入る。

若い坊さんが、説明をしてくれる。輪王寺の歴史は相当古く、奈良時代の創建とも言われている。江戸時代に徳川の庇護のもと隆盛を極めるのである。

ちなみに入ったお堂は、三仏堂といい、総本堂である。内部はなかなか荘厳である。

木造のでっかい仏像とか、やたら漆を厚く塗った柱が見事である。

坊さんの営業トークに辟易としながら、お堂を出る。

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相輪塔という。天海が徳川家光の発願で比叡山の宝塔に模して構築したもので、青銅製の塔である。内部に千の経典が埋まっているらしい。。。

さあ、次回は、いよいよ東照宮である。。。

2008年8月22日 (金)

神戸市北区歴史探訪

平成19年8月12日。

盆休みで、里帰りをし、墓参りがてら、神戸市北区の史跡を訪ねた。

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最初に訪れたのは、箱木千年家である。千年家は、日本最古と推定される民家の一つで、国の重要文化財である。ちなみに国に指定された名称は、箱木家住宅である。昔から築千年というふれこみであったが、結構眉唾扱いされていた。ところが、呑吐ダムの建設により水没するため、移築工事がされたとき、調査の結果、室町時代後期の建物と推定されたのだ。

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母屋である。この建物が、室町時代後期と推定されている。

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内部はこのようになっている。それにしても子供の頃来たときは、もっと観光客がいて、活気があったような気がするが、なんとも人気がない。

床や柱は、ちょうなで削られているため、結構でこぼこしている。

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離れは、新しく江戸時代のものらしい。

離れは、呑吐ダムに隣接しているせいか、非常に涼しかった。

・・・・・・・・・

続いてやってきたのは、無動寺である。

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特に有名なお寺というわけではないが、ここには平安時代の仏像が祀られており、そのうち4体は国の重要文化財である。

参道には、参拝客を飽きさせないよう?石仏が並んでいる。

なかなか山道に苦労し、やっと山門をくぐった。

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本堂を見学させてもらう。なかなか重厚な本尊や不動明王を見て、感服する。

無動寺は、高野山真言宗のお寺で、なかなかの古い歴史を持つ。公式HPには、聖徳太子がどうとかでてくるが、そこまで古いかは謎である。しかし、仏像の古さから、平安時代から続くのは、間違いないだろう。

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境内の裏手には、若王子神社がある。無動寺の鎮守社であり、室町時代のものらしい。国の重要文化財である。なかなか・・・

参道を森林浴しながら、戻った。

おしまい。

2008年8月19日 (火)

京都迷宮入りⅤ(その10:京都御苑、晴明神社)

相国寺を見学し終え、しばらく歩くと、京都御苑の入り口が見えたので、立ち寄った。

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京都御苑は、京都御所の周りの公園のことである。京都御所は、期間中のみの公開だが、京都御苑は市民の憩いの場となっているのだ。

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建礼門である。京都御所の正門である。この先に紫宸殿があるらしい。

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和む。。。

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蛤御門である。京都御苑の西門の一つである。本来の正式名は新在家御門だったが、大火で御所が炎上したとき、開かずの門が開いたということでついた俗称が、以来正式名となったそうだ。蛤が熱でぱっくり開いたんですな。。。

ちなみに歴史の教科書でお馴染みの蛤御門の変(禁門の変)の舞台である。今でも当時の弾痕が確認できる。

蛤御門から西にしばらく歩き、一条戻橋に来た。一条戻橋といえば、そう!

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安倍晴明である!ということで、晴明神社にやってきた。

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晴明といえば、一級の陰陽師であり、オカルト界のアイドル的存在である。

ライバルは蘆屋道満(あしやどうまん)で、道満といえば、あやかしの城でラスボスだった。私はなかなか倒せなく、飽きて、やめた。まあ、どうでもいい話である。

さて、晴明神社であるが、これといって、おもろいことはなかった。

おしまい。。。

2008年8月18日 (月)

京都迷宮入りⅤ(その9:相国寺)

相国寺にやってきた。

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相国寺は、正式には、万年山相国承天禅寺という。長っ!

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京都五山の第二位で、開基は足利義満、開山は夢窓疎石と凄まじく由緒正しいお寺である。何を隠そう、世界遺産に名を列ねる金閣寺も銀閣寺も、この相国寺の境外塔頭に過ぎない。

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法堂である。中には須弥壇があり、本尊の釈迦如来が祀られている。なかなか荘厳である。天井には狩野光信作と言われる龍が描かれている。

続いて、方丈を見学する。

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裏庭である。

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裏庭側の部屋である。

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最後に浴室を見学する。

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オリジナルは、1400年ごろ創建と見られるが、現存のものは1596年に再建されたものを平成14年に修復したものだ。ここでいう浴室は、いわゆるスチームサウナのことである。

相国寺はすごいのだが、やはり禅寺というのは、いまいちときめかない。

相国寺を後にした。

2008年8月10日 (日)

京都迷宮入りⅤ(その8:金閣寺)

金閣寺にやってきた。

金閣寺の正式名称は、北山鹿苑寺という。あまりに有名だが、日本史で有名な北山文化の中心地である。足利義満の邸宅兼御所である北山山荘は、義満の死後、鹿苑寺としてお寺になったのである。ちなみに鹿苑寺とは、義満の院号「鹿苑院」に由来する。

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金閣寺の金閣である。正式には舎利殿といい、三層構造の建築物である。中は、非公開である。

手前のでっかい池は、鏡湖池である。水面に映る金閣がなかなか美しい。

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金閣は、昭和25年に僧侶の放火により、焼失しており、現在の建物は、昭和30年の再建である。そのへんのことは、三島由紀夫の小説「金閣寺」の題材にもなっている。

ここは、金閣以外、特に見るものもないだろう。。。

・・・・・・・・

きんぴかを見て、きゃっきゃ騒ぐ外国人さんを眺めながら、のんべんだらりんと過ごしていると、《相国寺公開中》の広告発見!

相国寺は普段公開していない。時期があるのだ。これはいかねばっ!

時計を見る。

ゲッ!時間ないやん!

相国寺まで、全速前進の徒歩が始まった。

2008年8月 8日 (金)

京都迷宮入りⅤ(その7:源光庵)

源光庵にやってきた。

源光庵は曹洞宗のお寺で、山号は鷹峰山である。当初は、臨済宗大徳寺の隠居所であったが、元禄に卍山道白禅師によって曹洞宗に改宗されたのである。

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門からして、一風変わっている。これは期待できる?

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ここの名物はこれである。庭園を鑑賞するため二つの窓がある。円いほうが「悟りの窓」で、四角いほうが「迷いの窓」である。京都の旅番組とかコマーシャル等でよく見る。

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むむっ!悟ったどぉ~

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迷ってしまいそうだ!

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ちなみに庭園はこんな感じである。

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そして、これである!

源光庵の天井板は、伏見城の床で、鳥居元忠らが石田光成に破れ、自刃したときの血糊が残っているのである。これが噂の血天井かと、オカルトファンの私は興奮した。

源光庵を後にして、常照寺にやってきた。

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春には桜、秋には紅葉が有名らしいが、こんな3月下旬では、何も見るところがない。。。

では、次に行くとしますかっ。。。

2008年8月 7日 (木)

京都迷宮入りⅤ(その6:光悦寺)

途中で、お昼になったので、コンビニでパンを買い、かじる。京都を散策して、こんなしょぼいお昼をとる人も少ないだろう。。。

光悦寺にやってきた。

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光悦寺は日蓮宗のお寺である。本阿弥光悦という人物をご存知であろうか。。。江戸時代の芸術家で、書道家であり、陶芸家であり、茶人であり、とにかくスーパーマルチアーティストなのである。例えるなら、江戸時代の海原雄山である。

光悦は、この光悦寺のある鷹ヶ峯の地を徳川家康から与えられる。職人たちが移り住んだため、当時は、芸術村と化していたらしい。光悦の死後、お寺となったのだ。

光悦といえば、吉川英治の宮本武蔵で登場したので、私的には印象深い。

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光悦寺に入ると、かなりの異質空間である。お寺という感じは全くしない。苔むしていて、いい感じだ。

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三巴亭という。大正時代の数奇屋建築ということだ。

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この垣根を光悦垣という。徐々に高さが変わる独特なものである。

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大虚庵という。茶室である。現存のものは大正時代のものである。

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了寂軒である。茶室である。

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本阿弥庵という。茶室である。

ご覧のように、茶室ダラケである。計7つの茶室がある。寺というより、茶室庭園である。

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光悦のお墓である。

芸術的なお寺を訪問し、すっかり雅な気分で光悦寺を後にした。

2008年8月 6日 (水)

京都迷宮入りⅤ(その5:高桐院)

大徳寺塔頭の一つ高桐院にやってきた。高桐院は細川家の菩提寺で、開基は細川忠興である。そう細川藤孝の息子にして、細川ガラシャの旦那である。

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おぉ!これはすごい!苔むしている。かなりいけている。

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今まで、石庭ばかり見てきたので、苔むした寺というのは新鮮に感じる。私はこういう寺のほうが好きだ。

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この春日灯篭は、もともと千利休のものであった。それを豊臣秀吉と細川忠興が所望した。千利休は、忠興に譲ることにする。わざと傷をつけて、天下人にふさわしくないと秀吉に断ったという。忠興は、その後、この灯篭をガラシャの墓とする。忠興の死後は、忠興、ガラシャ夫妻の墓となったのである。むー、戦国マロンですな。

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こちらも細川家の皆さんの墓である。

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高桐院を後にした。

次の目的地に行く前に、今宮神社に寄った。

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疫病を鎮める神社らしい。

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ここにはあぶり餅なる銘菓があるらしいが、あまり知らない。そういうことの専門はぎーさんとJINなのである。

さーつぎ、さーつぎ♪

2008年8月 5日 (火)

京都迷宮入りⅤ(その4:興臨院)

大徳寺の塔頭のうち、通常公開されていない興臨院が特別公開中であった。

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もとは畠山家の菩提寺であったが、畠山氏没落後、前田利家が改修し、前田家の菩提寺となった。

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やはりここにも石庭が・・・。見飽きたなあ。。。

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興臨院のほか黄梅院も特別公開中であり、参拝したが、写真撮影禁止であった。

さあ、次!

2008年8月 4日 (月)

京都迷宮入りⅤ(その3:龍源院)

大徳寺には21個の塔頭がある。そのうち龍源院、高桐院、瑞峰院、大仙院の4つの塔頭が随時公開している。今回、この4つを全て回ったが、写真撮影が禁止されていた瑞峰院と大仙院については、詳細な記載を避けることにする。

まず、第一弾の龍源院である。

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ここは、はっきり言って石庭である。方丈を囲んで4つの石庭が存在するのである。

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石庭好きの方ならば、うきうきわくわくなのだろうが、いまいち石庭の価値が分からない私には結構退屈である。

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私的には、こういうのがよい。

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なかなか立派な龍である。

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こちらは日本一小さな石庭とのことである。

なんか日当たり悪くて、じめじめしてそうな、湿気臭そうと感じたのは、私だけだろうか。。。

龍源院の歴史を少し語ろう。1502年に能登の畠山氏や豊後の大友氏らにより創建されている。

さあ、次!

2008年8月 3日 (日)

京都迷宮入りⅤ(その2:大徳寺)

大徳寺にやってきた。あいにく天候がよろしくない。ぽつぽつ降ってきた。しかし、そんなことは真剣勝負に関係ないわぁ~

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勅使門である。

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で、こっちが三門である。かなり立派である。千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた理由となった三門である。

大徳寺は、山号を龍宝山といい、臨済宗大徳寺派大本山の寺院である。一休宗純を輩出した名刹である。また、茶の湯にも大きく関係しており、村田珠光や千利休等と関係が深い。

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仏殿である。

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法堂である。

終わり。。。。

大徳寺の敷地は膨大である。しかし、伽藍がこんなけしかない。他は何かというと塔頭である。実に21個もの塔頭が乱立しているのだ。

ということで、塔頭をいくつか回ることにした。

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