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伝説の旅ベスト5

  • 第五位:第一次九州遠征(2号線の旅)
    1999年3月に国道2号線を使って、神戸から北九州まで旅をした伝説。帰りはフェリーで松山に上陸し、四国を横断して帰ってきた。
  • 第四位:ハワイのんびり旅行
    2005年12月。ホノルルマラソンに出走。人生を変えた旅。
  • 第三位:英国旅行
    飯は不味いが、とにかくお洒落な街と大英博物館、ストーンヘンジ、カンタベリー最高!
  • 第二位:中欧旅行
    ベルリン、プラハ、ブタペスト、ウィーン、ヴェネチア、アムステルダムと6カ国の都市を主に列車で巡った。飯が美味かった。
  • 第一位:北部インドの旅
    2007年2月。とにかくカルチャーショックの連続だった。

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2008年7月

2008年7月30日 (水)

京都迷宮入りⅤ(その1:二条城)

平成19年3月24日。京都シリーズも第五弾である。これで一息つくことができる。

初めに訪れたのは、二条城である。

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二条城という名称の城は、室町以降いくつも歴史に登場してくる。現存の二条城は、徳川家康が伏見城の遺構を移すなどして造営したものである。

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唐門である。

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見事である。

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さっそく二の丸を見学する。

内部の装飾は見事としか言いようがない。狩野探幽を始めとする狩野派の襖絵が立ち並ぶ。中でも、式台の間の狩野探幽が描いたとする松の襖絵は必見である。とにかく実際に見てほしい。。。

二の丸を見学し終え、庭園を廻る。

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・・・・・・・・・・・・・

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本丸である。普段は非公開である。以前に、両親と特別拝観を見に行ったことがあるが、結構しょぼかった。何故ならば、創建当時のものは、既に焼失しているからだ。これは、旧桂宮邸を明治時代に移築したものである。かつての本丸は、二の丸と同様に狩野派の粋を極めた逸品だったらしい。

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京都に来たら、いつも思うことだが、とにかく外国人観光客が多い。特にここ二条城は、世界遺産でもあるので、ことさら多い。そんな外国人観光客(♂)が修学旅行中の女子高生をエロイ目で見ているのを、観察すると、結構面白い。。。

2008年7月29日 (火)

ちょっと久留米まで・・・

平成19年8月26日。

石橋美術館のタダ券が手に入ったこともあり、久留米まで遊びに行くことにした。石橋美術館とは、ブリジストンの石橋さんの美術館で収蔵品には、かの有名な青木繁「海の幸」等があるのだが、ここでは言及しない。

石橋美術館を見学した後、少し寺等を参拝したので、そのことについて書く。

・・・・・・・・・

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やってきたのは、梅林寺である。臨済宗妙心寺派のお寺で、山号を江南山という。

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ここは梅の花で有名で、シーズンになると参拝客が増えるらしい。もっとも真夏なので、梅の花など当然なく。人影もない。

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なかなか立派な彫刻だ。

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ここは、修行の厳しさで有名らしい。

この1ヶ月強の後、研修で座禅体験させらる羽目になるとは、このときは思いもしなかった。

・・・・・・・・・・・

座禅では集中できていないと喝を入れられる。また希望すれば、ばしばし叩いてもらえるのだ。座禅を始めて、数分後に球児がごそごそして叩かれた。早すぎである。蒸れて痒かったらしい。それから我々一同は、お坊さんにばしばし喝を入れてもらうため、要求していたのだが、最後には、お坊さんが切れ気味で、大層痛かった。まあ、いい思い出である。

私は五発、うっちょも五発だったか、HAMAちゃんが六発で一番多かった。

・・・・・・・・・・・・

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続いてやってきたのは、水天宮である。日本中の水天宮の総本社である。もっとも私はここ意外に水天宮を知らない。ネットで調べたら結構あるみたいである。

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その名の通り、水にご利益があるそうな・・・。

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なかなか趣はあるが、真夏の久留米は相当暑い。

この後、いろいろ久留米を歩こうかと思ったが、あまりの暑さに断念した。

喫茶店冷たいものを飲み、さあ帰ろうと思ったら、夕立に遭うなど、結構きつかった。。。

また、リベンジしなければ・・・。

2008年7月25日 (金)

但馬旅情編(その4:温泉寺)

玄武洞から再びサイクリングをして、城崎温泉まで帰ってきた。

レンタサイクルを返して、再び温泉街を散策する。

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城崎温泉の元湯で、温泉卵が売っていたので、食す。うまいっ!

・・・・・・・・

温泉寺に行くことにした。

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温泉寺の開基は城崎温泉の開祖である道智上人である。山号は末代山で、高野山真言宗の別格本山である。

仁王門が見えてきた。予想以上の立派さに、お兄さんびっくりだっ!

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山門をくぐると、薬師堂がすぐにある。

なかなか趣がある。すぐ横手に本堂に続く、山道が続いている。

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サイクリングの後は、登山とは・・・。

デュアスロンやないんやからっ!

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ぎーさんの顔面がチアノーゼで蒼白になる頃、やっと本堂に着いた。

中を拝見することができたので、見学する。写真撮影できなかったが、ものすごい雰囲気のある寺である。ここの本尊であ十一面観音立像は国指定重要文化財であり、33年ごとにしか開帳しない秘仏である。当然、このときも本尊が納められた厨子しか見れなかった。

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密かに奥のほうに多宝塔があった。

予想以上の古刹ぶりに、驚いた。隠れ名刹である。

山道を下り、温泉街に戻る。

しばらく散策した後、最後の外湯、郷の湯に入る。

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城崎温泉駅の駅前にある。よくあるスーパー銭湯のようだった。。。

おしまい。

2008年7月23日 (水)

但馬旅情編(その3:玄武洞)

城崎温泉の駅前でレンタサイクルを借りる。目的地は玄武洞である。

3月下旬とはいえ、気温はまだまだ低い。しかしながら、結構な距離をサイクリングしたので、すっかり燃える男になってしまった。

玄武洞とは、国指定天然記念物で、火山活動により形成された玄武岩塊を、採掘した後の洞穴である。江戸時代の儒学者がここを訪れた際、玄武に似ているということから名づけたそうだ。なお、地学の授業で有名な玄武岩は、ここにちなんでつけられた名である。

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玄武洞である。

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いかに巨大であるか分かるであろうか?かなり度肝を抜かれる光景である。

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続いて、青龍洞である。

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水が溜まっている。

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水が滴り落ちている。

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玄武洞以上のスケールに息を呑んだ。

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次は、かなりちっこくなって、白虎洞である。このあたりは、無理矢理、四神に合わせた感がある。

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北朱雀洞である。朱雀・・・?

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北があれば、南もある。南朱雀洞である。小さいながらも、きれいにまとまった感がある。

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・・・・・・・・

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のどかですなぁ

さ、城崎温泉に帰るとしますか・・・。

2008年7月22日 (火)

但馬旅情編(その2:城崎温泉)

宿泊先の城崎温泉にやってきた。

ここ城崎温泉は外湯巡りが有名である。外湯は全部で7つある。

晩飯を堪能した後、早速、外湯巡りスタートである。

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まずは、柳湯である。中国西湖から移植したという柳の木の下から湧き出たということから名づけられた湯である。これといって面白いお風呂というわけではない。

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すっかり暗い中をてくてく歩き、やってきたのは、まんだら湯である。道智上人というお坊様が曼荼羅一千日祈願して湧き出たので、この名らしい。結構熱かった。

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ちょっと豪勢っぽい造りは、御所の湯である。増鏡に皇室の高貴なお方が入ったという記事があることからこの名がある。

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本日最後の入湯は、一の湯である。城崎温泉で一番有名な外湯である。かつて天下一と絶賛した人がおったそうで、この名がある。

ここまで、ハイスピードで4つの外湯に入った。かなり逆上せ気味である。

ホテルに帰ると、ぐっすり眠った。

・・・・・・・・・・・

平成19年3月21日。早朝に這い出し、外湯巡りの続きである。

ぎーさんは、ノックアウトである。

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先日は、暗かったが、明るくなると、川沿いに柳が立ち並び、なかなか風流である。さすが、志賀直哉の「城崎にて」の舞台である。中学のときに国語で習った記憶から行けば、電車にちょっとかすって怪我をしたので、湯治に来て、日々ごろごろ・・・。ある日、溝にイモリがうごめいていたので、近くの石ですり潰し、その断面を見て喜んだという話だったような・・・?違うかったっけ?まあ、当時、「ええ大人が働けよ!」と思ったものだ。

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昨日、暗かった一の湯である。今日はスルーする。

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ひたすら歩き、やってきたのは、鴻の湯である。コウノトリが昔湯治していたという伝説からこの名がある。ここの露天が一番雰囲気が良かった。

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中心に戻ってきた。地蔵湯である。入り口の隣に地蔵さんが鎮座されている。

さとの湯を残し、外湯巡りを一時中断し、ぎーさんの待つホテルに帰ることにした。

2008年7月21日 (月)

但馬旅情編(その1:余部鉄橋)

平成19年3月20日。

余部鉄橋の架け替え工事がまもなく始まるこの時期に、余部鉄橋の最後の勇姿を拝みにいこうというJINの提案に乗り、但馬へと旅立った。今回の旅のお供は、JINとぎーさんである。ぎーさんとは、乗る電車を決め、JINとは、福知山で待ち合わせをした。福知山でのほほんとぎーさんといると、JINがやってきた。東京からの帰りらしい。相変わらず、行動が意味不明かつ大規模である。

電車に呑気に揺られ、餘部にやってきた。それにしても神戸から出発して、何故他府県をとおり、恐ろしい時間を費やさなくてはいけないのか・・・。

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餘部は駅名のみで、地名は、余部である。なんでもJRで余部が別にあるらしく、区別しているらしい。

余部鉄橋は兵庫県香美町余部にある。JR山陰本線の鎧駅から余部駅の間にある鉄橋で、その独特のフォルムと鮮やかな朱色から鉄道ファンの心を掴んで離さない。

そして、ここにも心を鷲掴みにされた御仁が一人。。。

1ガンレフを必死に構えるJIN。。。

立派な鉄道マニアですなぁ。本人は否定しておりますが・・・。

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余部鉄橋である。なかなか絶景である。

余部鉄橋が間もなく、橋梁の架け替え工事が始まり、コンクリート橋となるそうだ。その工事には、いろいろと反対意見も多い。この件について、どうこういうつもりはないが、折角の文化遺産である。もったいないと思うのは、私だけだろうか?

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かつて餘部駅がなかったため、地元住民は大変苦労されたそうだ。昭和34年に餘部駅が建設されたときの苦労を記念した壁画であるようだ。

下に降りることにした。

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下から見ると、余部鉄橋の巨大さがよくわかる。海に向かって歩いた。

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まだ山に雪が残っている。さすが、但馬である。

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余部鉄橋といえば、昭和61年の車両転落事故が記憶に新しい。余部鉄橋始まって以来、初めての転落事故であった。横風を受けたお花見列車が転落し、真下にあった水産加工工場を直撃した悲しい事故であった。犠牲になった方々には、慎んでお悔やみ申し上げたい。

という風に、JINとぎーさんは申しおりました。

私には、その記憶がまったくなかったのだ。アホの時代なので、記憶力が散漫だったのだろうか?ぎーさんたちから事故の話を聞いて、衝撃を受けた。

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ぎーさんから、賞賛を受けた写真である。

普通ない構図やろ?という話である。私的には、普通に撮っただけなんですけどね。

まあ、普通はもっと車両を美しく撮ろうということでしょうか?

余部鉄橋の最後の勇姿を目に焼きつけ、宿泊先の城之崎へ向かった。

2008年7月19日 (土)

博多を歩こう!Ⅱ(舞鶴城花見)

平成20年4月6日。世間では花見、花見と騒いでいる。ということで、桜でも見ようと、舞鶴城までやってきた。

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舞鶴城は、本当は福岡城という。黒田藩の居城で、現在は、スポーツ施設などが充実しており、公園になっている。何故舞鶴城と呼ばれるかは知らない。

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桜は満開のようだ。それにしてもほんのりビアのにおひがする

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祈念櫓とある。鬼門封じのための櫓らしい。

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桜の通り抜けである。足元のブルーシートさえなければ、さぞ雅であったろう。。。

そうなれば、一句捻っていたところだが、残念だ。

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奥はグランドのようですな。

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井戸がある。

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いよいよ天守閣がかつてあった場所が赴く。

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なかなかよい眺めだ。

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天守閣跡である。寂しい・・・

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一番てっぺんからの眺めは格別である。

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福岡ドームと福岡タワーが見える。福岡タワーは公募したにもかかわらず、福岡タワーというそのままのネーミングをされた悲劇の塔である。ドームの隣のビルは、JRAリゾートシーホーク福岡である。

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こちらは大濠公園である。大濠公園といえば、福岡では高級住宅地に入る。目指せ、大濠生活!テント買ってこよかな・・・?

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さ、おりますかね。

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・・・・・・

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ここが本丸跡である。ただの更地になっている。寂しい・・・

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この工事現場は、鴻臚館跡の発掘現場である。かつて平和台球場があったところでなのである。平和台球場といえば、西鉄ライオンズの本拠地であり、ダイエーホークスが福岡に乗り込んでしばらくの間も使用していた球場である。そう伝説のださださユニホームのころである。ヘルメットの鷹の目は、今でも語り草になっている。

鴻臚館は昔の大宰府に訪れる外交使節をもてなした迎賓館である。

向かいに展示館があるので、入った。

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もっと明るいところでみたら立派な陶磁器であろう。

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さ、歴史の勉強もしたし、花も観賞し、美意識も高めたし、満足である。帰ろう。。。

2008年7月18日 (金)

ハウステンボス地獄

平成19年10月某日。ハウステンボスで会議があった。この記事は、仕事の合間にハウステンボスを見学した記録である。

・・・・・・・・・・

博多駅から特急に乗り込み、ハウステンボスにやってきた。会議中はここで宿泊する。

宿泊先は、ホテルデンハーグである。

既に日没コールドが近い。上司に夕食を食べにいくから、何時にロビーで集合との指令を受ける。集合時間まで散歩することにした。

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ホテルデンハーグである。なかなか立派である。

中央に向かって歩く。なんかでっかい塔が見える。

そういえば、言葉の違う女学生たちが戯れている。どうも韓国の女学生らしい。修学旅行かな?それにしても前髪を一直線にするのは、韓国で流行っているのかしら

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ホテルヨーロッパである。どうせならここに宿泊したかった。ここは船でホテルにチェックインできるそうだ。。。

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ドムトールンである。中には、ショップが入っていたりする。展望台に上れるようだ。

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アレキサンダー広場である。建物は教会なのかな?

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おっと、時間がない!

上司と夕食をとる。結局、中華系のファウストフード・・・。

飯を終えると、既に暗かった。

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美しいですな。

・・・・部屋飲み。。。

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さあ、寝よう。。。

・・・・・・・・

二日目は、懇親会等で死んだ。。。

・・・・・・・・

三日目に上司が先に帰ったので、晩からようやく自由な時間がやってきた。

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うひょ~♪自由っていいなあ

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花火が始まった。

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レーザー照射も美しい。

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終わった。本日の提供は九電だったようだ。

自由を謳歌する。

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美しいね。

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晩飯を食って、既に満腹なのに、佐世保バーガーを食す。生涯初めての佐世保バーガーであった。

自由を楽しみ、満足のままホテルへ帰った。

・・・・・・・・・・

最終日。帰る前にもっと散策しなきゃ。。。早朝に探検に出発する。

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パレスハウステンボスである。これぞハウステンボスの象徴である。オランダの宮殿を再現した建物で、美術館と裏庭が素晴らしいらしい。早朝なので、中に入れず

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お花に囲まれ、そこに痺れる、憧れる~

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人通りが少なくてよいが、店も当然開いていない。

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わ~い。風車だぁ

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そろそろ時間がやばい。ホテルに戻ろう。

途中、さっきのドムトールンの見える花畑にくると、妙な木枠がある。何かな?と覗くと・・・

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おぉ!絵画みたいだ!

くだらん!

で、ホテルに戻り、ハウステンボスを後にした。

やっぱプライベートで来ないと・・・。

仕事できても、蛇の生殺しですわ。。。

2008年7月17日 (木)

宮地嶽神社

平成20年4月某日。宮地嶽神社にやってきた。

宮地嶽神社は、福岡県福津市にある。ご祭神は、神宮皇后で、全国の宮地嶽神社の総本社である。

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もうすぐ日没コールドという時間帯だったからか、人通りは少ない。

石段を上ると、中腹に石碑があった。

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地元の農民は勤勉で、江戸時代の大飢饉でも年貢を完納したぞということが書いてある。

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まもなく本殿である。

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ここには、自称三つの日本一が存在する。その一つが拝殿の大注連縄である。

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ごらんの太さである。直径2.5メートル、長さ13.5メートル、重さ5トンとのことである。

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早速参拝する。

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拝殿の横から裏手に回れる。そして、何やら楽しげな看板が・・・。

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本殿の横手である。開運桜とな?しかしながら、葉桜である。

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奥の宮八社巡りのの手前にフェイントのように須賀神社がある。

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この先から奥の宮八社巡りがスタートする。

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・・・・・・・

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七福神社(一番社)。

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おぉ!?伏見稲荷っぽいぞ!

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稲荷神社(二番社)。

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楽しげなのぼりが・・・。

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不動神社(三番社)。

中を覗く。

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なんか暗いぞ?

ちょっと横手に回ると・・・。

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なんと不動神社は古墳であった。横穴式石室古墳とやらに不動尊を祀っているらしい。

なお、ここからいくつか国宝が発掘されているらしい。すごっ!

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万地蔵尊(四番社)。

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右、淡島神社(五番社)。

左、濡髪大明神(六番社)。

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陰陽石。・・・ってか、これって・・・、あれ?

一人で行った別府秘宝館を思い出す私。

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三宝荒神(七番社)。

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水神様じゃ~。

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薬師神社(八番社)。以上、コンプリ~ト!

拝殿まで戻ってきた。

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宮司さんが太鼓を演奏している。腹の底に響くぜぇ~

神社を後にする前に、注連縄以外の二つの日本一をご紹介する。

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日本一の大鈴である。かつては注連縄とともに、拝殿に架かっていたそうだ。あまりの重さ(450キログラム)に、降ろしたとさ。。。

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日本一の大太鼓である。直径2.2メートル!でかっ!毎年一月一日午前零時に打ち鳴らすらしい。正月だからいいものの・・・

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さ、帰ろう・・・。

2008年7月14日 (月)

播磨の旅(その5:高砂神社)

加古川市の鶴林寺から再び高砂市に突入し、高砂神社にやってきた。

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旧社格は県社である。ここは能の「高砂」の舞台である。

あるとき、一つの根から雌雄二本の幹を持つ松が生えた。以来、尉(イザナギ)と姥(イザナミ)の2神が宿るとされ、「相生の松」と称される。

高砂は、阿蘇神社の神官が高砂で相生の松の精霊である老夫婦に出会うめでたい話で、その謡曲は結婚式でじじいがよく歌うのだ。

ちなみに阿蘇神社には、この相生の松が移植されているのだ。阿蘇名水巡りを参照のこと。

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いきなり相生の松とはいかない。神木いぶきとある。高砂の登場人物である阿蘇神社の神官の杖から発芽したという伝説がある。すごい生命力である。

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とりあえず、本殿にお参りする。主神は大己貴命で、大国主の別称である。

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霊松殿には、天然記念物であった三代目の相生の松が保存されている。昭和12年に枯死したようだ。

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で、これが今の五代目の相生の松である。まだ若いのか、どことなく威厳がない。これからの成長に期待である。

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結構、雰囲気もよく、気分が落ち着く神社である。境内を眺めていると、地元の人がたくさんいた。町民憩いの場となっているのだろう。楽しそうに遊んでいる少年を見ると、ここが全国的に有名なスポットだなんて、知っているのかな?と考える。少年にとっては、そんなことはどうでもいいことで、肝心なのは、ここが自分にとって最高の遊び場ということなんだろうなと想像した。

播磨の旅はこれで一段落である。ただ、まだ何箇所か気になっている所があるので、いずれPart2をしたいと考えている。気になっているところは、太陽公園・・・。

おしまい。

2008年7月11日 (金)

播磨の旅(その4:鶴林寺)

生石神社のある高砂市から加古川市の鶴林寺にやってきた。

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天台宗のお寺で、山号は刀田山である。聖徳太子縁の寺らしい。播磨の法隆寺ともいう。

仁王門の前では花を売っていたり、なかなか宗教色のある素晴らしい寺だ。

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三重塔である。室町時代のものらしい。

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本堂である。国宝らしい。

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太子堂である。堂内に壁画の聖徳太子像があることから呼ばれている。国宝である。

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境内を散策していると、なにやら妙なグループがいる。古刹の研究サークルであろうか?おじさま・おばさまがお堂を見ながら、討論している。妙な集団なので、関わらないようにした。

ここの宝物館には素晴らしい文化財がたくさん展示されているのだが、なかでも注目すべきは、「あいたた観音」こと聖観音立像である。容姿もなかなか涼しげで、軽く腰をくゆらせて、おちゃめである。伝説では、昔、泥棒に盗まれ、金をとろうと溶かされかけたが、失敗した。怒った泥棒が槌で叩くと、観音様が「あいたた・・・」と言ったそうな。。。泥棒は恐れ慄き、お寺に観音様を返したという。。。

伝説までお茶目である。

加古川の街中にこんな名刹があるということに感動した。

2008年7月10日 (木)

播磨の旅(その3:生石神社(石の宝殿))

姫路市から高砂市にやってきた。目的は生石(おうしこ)神社である。

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社格は県社であるし、特に凄そうに見えないが・・・。

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御神体がこれなのだ。

石の宝殿という。とても巨大な石造物で横6.4m、高さ5.7m、奥行7.2mということだ。下が池になっており、石が浮いているように見える。摩訶不思議な物体である。誰が何のために作ったか、わかっていないらしい。こいつはとんだオーバーテクノロジーだ。。。きっと宇宙人やね。

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石の宝殿の後ろ側は、ブラウン管テレビの背面のようにでっぱりがある。

はっ!?

そうか!これは宇宙人が作った古代テレビに違いない

オーパーツ発見!

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こっちが本殿になる。

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裏山に上る道があったので、上る。おぉ、石の宝殿の上には木が生えているぞ!

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なかなかいい景色だ!

噂に聞いた高砂の巨石文明を垣間見て、悦に浸った。

2008年7月 9日 (水)

播磨の旅(その2:書寫山圓教寺)

姫路城から車で書寫山の麓にあるロープウェー乗り場にやってきた。

圓教寺は関西では紅葉の名所として知られ、山号である書寫山と言ったほうが名が通っている。高野山や比叡山のようなものだ。

ロープウェーで圓教寺に向けて、いざ出じ~ん♪

冬で殺風景とはいえ、なかなか見ごたえのある風景であった。

ロープウェーを降りると、結構ハードな上り坂である。不健康なじじばばにはちゃんとシャトルバスが用意されている。もちろん健康な御仁は、私とともに山道を登る。ま、私のスピードについてこれる者はいなかったが・・・。

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しばらくすると、仁王門が見えてきた。ここからいよいよ境内である。

またまた延々と山道を歩く。さすがにハードである。

さて、圓教寺であるが、天台宗の別格本山であり、かなり寺格を持つ。「西の比叡山」という称号も持っているのだ。

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圓教寺名物の摩尼殿が見えた。舞台作りの独特なフォームは見ごたえである。ちょっと清水寺を思い出した。

この春のコーディネートは摩尼殿がマストであるぞ

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摩尼殿の内部である。なかなか面白い建物で、これだけでも悦に浸ったのだが・・・

またまた山道を歩く。

ところで、圓教寺が映画「ラスト・サムライ」のロケ地として有名である。

ゲリラ侍の勝元の本拠地である。

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大講堂である。圓教寺の本堂である。

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こちらは常行堂である。常行三昧(ひたすら阿弥陀如来の名を唱えながら、本尊の周りを徘徊するという素晴らしい修行)をするところである。

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食堂(じきどう)に入ってみた。

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食堂の二階から常行堂を眺める。

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食堂の内部はちょっとした展示室になっている。本来は僧侶の寝食の場である。

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今度は食堂から大講堂を眺める。

大講堂、食堂、常行堂は北から順に逆コの字に並んでいる。よって、「三之堂(みつのどう)」という。

かなりユニークなつくりだ。

これらの三之堂はラスト・サムライででくる。特に常行堂は、渡辺謙が教を読んでいたあそこである。

また、山道を歩く。

・・・・・・・

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開山堂である。開山の性空上人を祀っている。ここもラスト・サムライに出てくるらしい。

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軒下の四隅に左甚五郎作と伝えられる力士像がある。西北隅の力士は、あまりの重みに逃げ出したとか・・・。

ここの管理をしているおじさんが、なかなか愛想の良いおじさんで、いろいろ話した。

「こんな時期にお寺廻りするなんて、感心やね。」

「ま、好きですからね。もうすぐ福岡に引っ越すんで、いまのうちに近場の名所を巡ってるんですわ。」

「結構いろんなところ回っとるん?神戸の人やったら須磨寺とか行った?」

「まだ行ってないんですよ(当時まだ行ってなかった。)。京都とか結構回ってますね。」

・・・心の中で人生最高の寺は、香港の萬佛寺ですとは言わなかった。ま、タイに行けば、絶対最高になる寺が存在するのだが、行けるかどうか分からない。。。行けたらいいねぇ・・・。ワットパーラックローイ

見知らぬ人との会話を極端に嫌う私が、おじさんの微笑みに負けて、結構世間話をしてしまった。おじさん、ありがとうな。。。おもろかったわ

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噂には聞いていたが、予想以上の名刹にびっくりした。兵庫県民として、ここに来なかったら、もぐりである。

さ、次行こう!

2008年7月 8日 (火)

播磨の旅(その1:姫路城)

平成19年3月17日。播磨地方の名所を探検することにした。というのも、4月から福岡に引っ越すことが決まっていたので、今のうちに近場の名所を巡っておきたかったからだ。3月に固めて京都を探検していたのも、同じ理由である。

播磨といえば、まずは国宝姫路城である。

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1993年に法隆寺とともに日本で初めて世界遺産に登録された名城である。ちなみに、国宝に指定された城には、姫路城の他、松本城、犬山城、彦根城、二条城がある。

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別名白鷺城と呼ばれる。由来は諸説あるが、白漆喰の美しい城というのが有力説であろう。

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戦国時代には、羽柴秀吉が毛利攻めの拠点にしていたこともあったが、現存する城は、江戸時代初期のものである。

そんな薀蓄はさておき、我々の世代では、名古屋城と合体し、格闘城として、関が原に舞い降りたことで有名である。ちなみに、リングの下の抜け穴は、超人墓場につながっている。

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菱の門を抜け、天守閣に向けて、いざ出陣~♪

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姫路城内は迷路のように入り組んでいる。攻められたときに、敵を攪乱させるためだそうだ。

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西の丸を進む。

徳川家康の孫の千姫は豊臣秀頼に嫁いだ。大阪の陣で秀頼が自刃したあと、本多忠政と結婚した。忠政が姫路城主だったとき、千姫もここで過ごしたようだ。ところで、この人形は、千姫かね?

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壁にまる、三角、四角の穴が開いている。これは狭間(さま)と呼ばれ、射撃用の穴である。他の城でも四角のものは見られるが、様々な形の狭間を装飾的に配列しているのは非常にユニークだそうだ。

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いよいよ天守閣に突入である。

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こ、これは雰囲気ありすぎでしょう?

どこの城でもそうだが、様々な文化財の展示をしており、博物館のようになっている。ただ、名古屋城や大阪城のようにコンクリート造りのエレベータ付きという興ざめはない。

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鉄砲が架かっている。

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最上階に上がってきた。

刑部大神が祀られている。刑部大神といえば、宮本武蔵が姫路城天守に住む妖怪を退治すると、美しい姫として刑部大神が現れ、礼をしたという伝説がある。我々妖怪マニアには、非常に有名な話である。興奮のルツボで、鼻血がでそうである。

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最上階からの眺めは素晴らしい。

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天守閣を降りてきた。

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最後にお菊井戸である。

播州皿屋敷に出てくる井戸と言われている。番町皿屋敷ではない。

内容は似たようなもので、お菊が毎晩皿を1枚、2枚数え、1枚足りないという、あれである。

皿屋敷伝説は、播州、番町の他にもいろいろあるようだが、有名なのは、この二つである。どれが元祖かはよくわからない。

お菊井戸をのぞいたが、何もなかった。ちょっと期待していたのだがねぇ・・・

さ、次に行こっと。。。

2008年7月 7日 (月)

新春奈良遠足(その6:平城宮跡)

唐招提寺から平城宮跡にやってきた。

平城宮とは、奈良の都、平城京の内裏跡である。現存する建物はなく、現在は、いくつかの建物が復元されている。

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朱雀門である。

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兵部省跡である。兵部省とは、文字どおり軍部を司る役所である。

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現存する建物は皆無で、一見ただの広場であるが、建物跡の穴ぼこや段差があちこちにあり、大層歩きにくい。

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この門の先に東院庭園がある。

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平城宮跡の東の張り出し部分で、ぐぐってみても、いまいちよくわからないエリアである。儀式や宴会に使っていたこともあるようで、別荘のようなものか?

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あちらこちらに危険の文字が・・・

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建物の基礎のようだが、素人目にはよくわからん。建築家なら血わき肉踊るかもしれないが・・・。

平城宮跡資料館に入る。

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ここでは、平城宮跡で発掘された遺構や資料を展示したり、当時の様子を再現したミニチュアを展示したりしている。

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井戸枠らしい。

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平城宮最大の柱だそうだ。

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第二次太極殿の基部である。ご覧のとおり、完全に奈良市民憩いの場になっている。

平城宮跡のいたるところで、お正月ということもあり、凧揚げをする親子の微笑ましい光景が見られた。電線もないし、確かに凧揚げにはもってこいである。

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第一次太極殿が復元中であった。これが完成すれば、かなり見ごたえがあるのではないだろうか?楽しみである。というより、全面復元しないと、ただの荒野である。

ただっ広い空き地を眺めながら、少々感傷に浸った。一句捻ろうかと思ったが、めんどくさいのでやめた。さあ、神戸に帰ろう。。。

おしまい。

2008年7月 6日 (日)

新春奈良遠足(その5:唐招提寺)

薬師寺から徒歩で唐招提寺までやってきた。

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南大門である。昭和35年に再建されたものだ。以前来たときは、ちょうど修学旅行?中の学生がいて、女子高生がここの階段でおもいっきりずっこけていた。受付のおじさんに思いっきり心配されていたが、冷酷非情な私は無視して中に入っていったものだった。

こういったとき、仮想空間ではフラグが立ったりするのだろうが、現実はそうではないらしい。ファンタジーは幻を想うって書くのさ。。。

まあ、思い出話は置いておいて・・・

唐招提寺は律宗の総本山で、かの有名な鑑真和上が開いたお寺である。

中でも金堂は素晴らしく、現存する唯一の奈良時代の金堂建築だそうだ。

でも残念ながら解体修理中である。

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2009年に修理が完了するようだ。

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かつて戒壇があったらしいが、現在は3段の石壇蚤が残る。で、昭和53年に宝塔を乗せたらしい。何故?

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講堂(国宝)である。工事中の金堂が邪魔で非常に見づらくなっている。

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礼堂である。

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経蔵と宝蔵である。どちらも国宝である。

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この先に御影堂があるのだが、あいにく見ることができない。ここにかの有名な鑑真和上坐像が祀られているようだ。

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この門の先は、前回も驚愕した開山御廟である。つまり鑑真のお墓である。

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相変わらず、苔むしておりますなぁ。。。

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鑑真のお墓である。

この唐招提寺は金堂の修理が終われば、またいずれこなければならないところだ。その頃まで、このブログが続いていれば、報告することにしよう。。。

今回の奈良遠足はいよいよ次回クライマックスである。。。

2008年7月 5日 (土)

新春奈良遠足(その4:薬師寺)

法起寺前から奈良交通のバスに揺られ、途中で郡山城跡を眺めながら、薬師寺までやってきた。

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薬師寺の手前には薬師寺の鎮守社である休ヶ岡八幡宮がある。

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薬師寺は法相宗の大本山である。

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中門である。

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悪い子はいねぇ~がぁ~!

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私にまかせなさ~い。。。

とりあえず仁王像を見たら、なんかアフレコしたくなる・・・。

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金堂である。薬師寺の建物は、火災により焼け落ち、ほとんどが昭和の再建である。

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東塔である。薬師寺で唯一創建当時から現存する建物である。1300年の歴史があるらしい。六重に見えるが、実は三重塔である。見かけは六重、中身三重、その名は・・・

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西塔は昭和の再建で大変きらびやかである。創建当時を再現しているそうだ。

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本尊の薬師三尊像である。もちろん国宝である。

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大講堂である。

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こちらは弥勒三尊像である。

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裏手には国宝の仏足石がある。もともと仏教は偶像崇拝を肯定しなかったので、仏像がなかった。でも信仰する側としては、なにかほしい・・・、ということで生まれたのが、仏足石である。その石の上に仏様がいるとして、崇拝するのだ。ま、そのうち石じゃ我慢できなくて、仏像ができたようだけど・・・。

仏足石の周りには、顔色の悪い釈迦十大弟子像が並んでいる。気味が悪い・・・

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東院堂である。

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こちらの仏は聖観音像で、国宝である。

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金堂本尊の台座(レプリカ)が展示されていた。ちなみに、薬師如来像だけでなく、その台座も国宝なのである。

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玄奘三蔵院伽藍に行く。

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薬師寺のウェブサイトを見ると、玄奘と縁があるということをとうとうと述べている。

その記念に建てということだ。それにしても豪華ですねぇ。。。

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顔が赤いけど、アル中すか?

玄奘さんって、こんなんやったんかな?夏目雅子のイメージが・・・、崩壊

薬師寺を出た。

2008年7月 2日 (水)

新春奈良遠足(その3:中宮寺、法輪寺、法起寺)

法隆寺夢殿のすぐ東隣に中宮寺がある。

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法隆寺と同じ聖徳宗に属し、山号を法興山という。

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で、これだけである。1968年建立した本堂である。コンクリート作りの大層雅な一品になっている。

これだけの寺にもかかわらず、保有するお宝がすごい。国宝を二つも持っているのである。

一つは本尊「木造菩薩半跏像」である。弥勒菩薩のようだ。もう一つは「天寿国繍帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)」で染織物である。後者は、奈良博に寄託しているので、堂内では見ることができない。木造菩薩半跏像はのっぺりとした豆腐のようなお肌をしており、その微笑みは「アルカイックスマイル」と賞賛されている。

・・・アルカイックって何?

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続いて、北にてくてく歩くと、法輪寺が見えてくる。

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法輪寺は聖徳宗に属する。今まで何回も倒壊しており、再建が目立つ。全体的に建物が新しいこともあり、世界遺産「法隆寺地域の仏教建築物」には含まれていない。

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三重塔は、1975年再建である。

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金堂である。

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講堂である。この中に重要文化財級の仏像が展示されていた。国宝ではないとは言っても、飛鳥時代のものが普通に置いてあり、素晴らしい。

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法輪寺から北東にてくてく歩くと、法起寺がある。

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これも聖徳宗のお寺で、世界遺産「法隆寺地域の仏教建築物」に含まれている。

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伽藍は結構小さいが、塔を東に、金堂を西に配置しており、法隆寺西院や法輪寺とは逆で独特らしい。

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池のほとりに三重塔の心礎があった。1970~1975年に三重塔を解体修理しているらしいので、そのときに取り出しのだろうか?

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講堂である。1694年に再建されたらしい。

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三重塔(国宝)である。現存最古(708年)の三重塔らしい。

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聖天堂である。1863年建立で、本尊歓喜天像を安置している。歓喜天(聖天)といえば、むふふ・・・な仏様である。興味のある人は調べよう!

法起寺前から前回の旅と同様に、バスに乗り、薬師寺に向かった。

2008年7月 1日 (火)

新春奈良遠足(その2:法隆寺夢殿)

西院を見学し終え、大宝蔵院と東院(夢殿)へ向かう。

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聖霊院(国宝)である。聖徳太子像が祀られているが、普段は非公開である。

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左手が東室(国宝)で、右手が妻室である。僧房だったらしい。

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綱封蔵(国宝)である。寺宝を保管する蔵だそうだ。

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食堂(国宝)である。・・・・ってか、なんでもない建物でも国宝なのね。。。

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大宝蔵院である。文字通り宝の宝庫である。

中は当然のように、撮影禁止である。とにかく内容がすごい!

玉虫厨子やら百済観音やら、超ど級の国宝たちが陳列されている。国宝の安売り状態である。内容量なら東博や京博に次ぐのでは?九博は完全に負けている・・・。

前回、百済観音を見たときは、感動のあまり我を忘れたが、今回もひたすら眺めてしまった。

たいそう悦に浸り、大宝蔵院をでた。

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東に進む。

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東大門(国宝)である。東西の境界にそびえる関門のようだ。

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この先が、夢殿である。

秘仏救世観音像(明治時代にフェノロサによって、暴かれた。)を安置している。

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夢殿(国宝)である。聖徳太子の住まい(斑鳩宮)跡に建てたお堂である。

それにしても神秘的な形をしている。

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夢殿の裏手には、絵殿や舎利殿がある。

夢殿の見学を終え、法隆寺を後にした。

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