京都迷宮入りⅡ(その1:銀閣寺)
平成19年2月27日。
京都巡りシリーズの第二弾である。前日に母校研究室のイベントに招待されたので、友達の白石先生の家に宿泊し、翌朝からスタートすることになった。
ちなみに白石先生は所用で今回は私一人である。
まず、白石先生の家から銀閣寺まで徒歩で行くことにした。
銀閣寺まで哲学の道を散歩する。今回は、哲学の道を南に下っていこうという魂胆である。哲学の道は、琵琶湖疏水沿いの小道で、哲学者西田幾多郎がこの道を散歩しながら思索に耽ったことから名づけられたと言われている。
銀閣寺にやってきた。
正式名称は、東山慈照寺である。開基は足利義政で、開山は夢窓疎石とされている。
夢窓疎石は実際には、1世紀前の人である。弟子筋にあたる僧が師僧を開山とすることがある。こういうのを勧請開山というらしい。いまいち納得がいかない。
銀閣寺は通称である。義政が造営した観音殿を銀閣と称することからこういう通称になった。
慈照寺の門をくぐると、銀閣寺垣という垣根がある。なんだか迷路みたいだ。
それを抜けると、いよいよ見えた。
銀閣である。金閣と比べれば、随分と地味だ。日本的な美である。
義政は文化人としては、なかなか優秀な人だったらしい。トップとしては、どうしようもない無能である。
慈照寺を建立した時期は、応仁の乱の直後であった。応仁の乱といえば、京の都を灰燼にした戦いである。西軍と東軍が神社仏閣を陣地にし、火をつけまっくたものだから、ほとんどの神社仏閣は消失した。京都のほとんどの神社仏閣は、応仁の乱後、豊臣秀吉や徳川家康が再建したものである。ちなみに、西陣という地名は、西軍の陣地があったことかららしい。まあ、とにかく義政は民が疲弊し、家を焼け出され、食べるものもないようなときに贅を尽くしたこの建物を建立したのだ。どういう神経をしているのか・・・
こちらは東求堂である。
義政の書斎がある。実はこの書斎がいわゆる我々が連想する和室の原点なのだ。
和室といえば・・・。
畳があって、障子があって、床の間に、違い棚・・・。
こういうのを書院造という。
まったく義政は裕福な時代に生まれて、文化人として生きれば偉人となったに違いない・・・。
とにかく応仁の乱の戦後処理など全くしなかったため、その後、戦国時代となっていくのである。
義政のお馬鹿さんは置いておいて、すっかり雅な気分になり、慈照寺を出た。
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